好きってきっと、こういうこと。
定時を知らせるチャイムがオフィス内に鳴り響くと、無事に営業から戻ってこれた人達は徐々に帰宅の準備を始める。
「お先に失礼します」
相村くんが挨拶をしてオフィスを出る姿を見送ると、あたしも渡辺の姿を気にしつつ帰る準備を始める。
チラッと右隣を見ると、まだ渡辺は画面に視線を向けてパソコンを操作していた。この状況、声が掛けずら過ぎる。
それでも周りの人たちはどんどん帰宅するために立ち上がっている。このままじゃあたしと渡辺のふたりきりになってしまう可能性が。
それは気まずい。
悩んだあたしは、この帰宅の波に乗って渡辺の前から姿を消すことにした。
いくらなんでも、こんな微妙な関係で飲みの約束が成立するとは渡辺も思っていないだろうし、ずっと集中しているみたいだからあたしが姿を消したことにも気が付かないだろう。
そうと決めたあたしはサッと通勤カバンを手にして、オフィスの扉のほうに向かおうとした時だった。
「おい、何帰ろうとしてる。俺との約束忘れたのか」
悪魔の囁きと共に感じるのは、右手に持っているカバンが引っ張られる感覚。
意を決して渡辺の方に振り向くと。
「ひっ……!」
「お前、あからさまに嫌そうな顔すんなよ」
「だって、渡辺の眉間にシワがよってるんだもん……」
「そりゃ約束すっぽかして帰ろうとするほうが悪いだろう。ま、わざとすっぽかしたのかは知らねぇけど、な?」
この人、あたしがわざと帰ろうとしてたこと、気付いてたんだ。
タチが悪い、この同期!
「そんなにここから出たいっていうんなら10分後にロビー集合ってことなら許してやる。ただ、帰った場合は……月曜日が楽しみだな?」
「す、すいませんでした!ここで待たせていただきます!渡辺さまの仕事が終わるまでずっと待たせていただきます!」
黒い笑みを浮かべた渡辺は「それでいいんだよ」とパソコンの電源を落とし始めた。