いきぬきのひ
「何、食べたいです? ウチのお店に行ってもいいですけど……」
「うーん、それも考えたんだけどねぇ。今日は、洋食って気分でも無くて」
 ああ、やっぱり。
 たぶん彼は、私と彼の二人で居るところを職場の人達に勘ぐられるのではないか、と気遣ってくれている。
 軽薄そうな振りをしつつも、実はしっかりと気配りが出来る人。そのスマートな言動に心奪われる女性が後を絶たないのは、正直、認めよう。
 とはいえ、私にすればむしろ。ディスコミュニケーション気味の草食系や、挫折知らずの世間知らずや、利権争いにばかり血道を上げるお年寄りが闊歩する研究所の中で、彼らを上手に手玉に取りながら悠然と泳ぎ回る彼の存在は、違和感を通り越して、異端。いや、異常にすら感じたものだけど。
「じゃあ……、すみませんけど、敵情視察につき合って貰えます?」
 なにげに放った一言に、彼がニヤリと笑った。
「そうだな。たまには老舗の中華ってのも、悪くないねぇ」
 そう言うと、呆気に取られる私を尻目に、迷いもなく歩き出す。
 敵情視察の一言で、どうして中華。しかもこの方角と分かるんだろうか。
 その取り澄ましたような後ろ姿からは、鼻歌までもが聞こえて来そうだ。颯爽と歩く彼の背中を慌てて追いかける。
 そう、これも相変わらず。彼は、常に相手の思考を先回りしては驚かすのが大好きだ。
 でも、どうして。
「さっきさ」
 彼が振り返った。その口元には、彼特有のいたずらな笑み。
「あそこ、見てたでしょ?」
 彼の視線の先を追えば、そこには麺の上にぽってりと乗ったフカヒレの姿煮がでかでかと写った、中華料理レストランのポスターが。
 やられた。そうなのだ。彼に掛かれば、うっかりなんてしていられない。
 よく周囲の人達からは、私達の会話は「阿吽の呼吸」だと言われたものだけど、でもそれは、彼の持つ異常なまでの洞察力の成せる技だ。
 私はと言えば、基本的に気が利かない部類の人間だ。
 だから、何一つしてあげられなかった。
 彼に対してはもちろん、自分の夫にさえも。
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