サニーサイドアップ
12.
急行電車はスピードを落として、弓音の降りる駅に停まった。肩越しに追い越し追い越される人混みの中を、弓音は携帯電話を握り締めたまま歩いた。今スリープになっている画面を操作すれば、届かないかもしれないと躊躇った宛先へのメールが白く浮かぶ。弓音はそれを確認することさえも躊躇って、少し考えた後にやっとスリープ画面をタッチすると、何も見ないようにして「キャンセル」ボタンを押した。次の操作を待つ携帯電話をハンドバッグにしまい、少し足を速めて改札を通った。
駅から歩いて十分ほどでマンションのエントランスに着く。広い公園に隣接した高層マンションで、マンションの下はちょっとした林くらいの木々に囲まれていた。結婚してすぐにローンで購入したマンションだ。弓音の両親は遊びに来るたびに落ち着かないと言うけれど、慣れてしまえばそんなこともない。町の明かりが点いて消える夜半。町並が闇の中から薄く浮いて出るような朝焼け。今では当たり前になった景色だ。
部屋番号とキーナンバーを押す。それからキーカードを翳して、弓音は薄暗い灯が点るロビーを横切った。
重たい鍵の音が響いた。弓音は下駄箱の上の皿にキーカードを載せて「いただいまー」と小さく声にする。その声は薄暗い廊下に吸い込まれていく。下駄箱の上の皿が、それは、大きな貝殻をひっくり返して小物入れに使っているものだったが、カードの重さをのせてすこしだけ揺れた。
廊下の突き当たりはリビングダイニングで、大きな窓が広めのバルコニーに面していた。朝、干したとおりに洗濯物が揺れている。からからとガラス戸を引くと、外の空気が一度に部屋に入り込んだ。この瞬間、弓音の胸がいつもぎゅうっと軋む。どうしてだろう。何かを思い出しているわけでもない。思い出のどこかの糸口になるような瞬間でもないのに、なぜなのかいつも、その一瞬、弓音の胸は軋んだ。そして、切なくなるその訳を探すように、弓音は思い出のどこかを辿っている。
たとえば学生時代の、
たとえば独身時代の、
たとえば新婚時代の、
たとえばもっと幼い日々の、
自分
低めの物干しに揺れている下着を吊るしたハンガーと、バスタオルを二枚、ワイシャツを吊るしたハンガー。弓音はそぅっと外して、窓に近いソファに置いた。ガラス戸を閉める一瞬、ふと思いついてバルコニーから夜景を見つめた。この町のどこかに、この町の、その先のどこかに、小さな明かりが灯っている。確かに、誰かがそこで生活しているのだ、と想像する。白っぽい蛍光灯はキッチンだろうか。それとも、オレンジ色の優しい光が灯っているかもしれない。それは寝室の光、だったりするだろうか。優しい言葉が交わされる、寝室。
「好きだ」とか「愛している」だとかと交わされる睦言。それでなければ、ただ「今日、学生時代の知り合いに会ってさー。」とか「今日、仕事で失敗しちゃったんだよなぁ」とか、あるいはテレビを見ながらCMの合間に「お醤油取って」とか「ティッシュ取って」とか、そんな言葉にかき消されてしまうような、そんなさり気ない他愛もないお喋りだろうか。
弓音は部屋に戻る。テーブルに投げ出された自分のハンドバッグの隣に置かれたお土産の焼き鳥の袋だけを手に取ってキッチンに向かった。焼き鳥をビニール袋ごと冷蔵庫にしまった。明日のお弁当のおかずにする。それから2リットルの水のボトルからグラスに一杯水を汲んで飲んだ。もう半分汲んで飲んで、弓音の喉の渇きはやっと潤った。まだ夫は帰ってきていない。だから、誰かに気を使う訳でもないのにそっと、何もかもをそっと、やる。それが癖になっているやり方で、そうっと、物音を立てないやり方で。
どこにもいない。
自分は、ここにもきっといない。
そんな馬鹿なことを考えるのは、静かな夜だからだろうか。
駅から歩いて十分ほどでマンションのエントランスに着く。広い公園に隣接した高層マンションで、マンションの下はちょっとした林くらいの木々に囲まれていた。結婚してすぐにローンで購入したマンションだ。弓音の両親は遊びに来るたびに落ち着かないと言うけれど、慣れてしまえばそんなこともない。町の明かりが点いて消える夜半。町並が闇の中から薄く浮いて出るような朝焼け。今では当たり前になった景色だ。
部屋番号とキーナンバーを押す。それからキーカードを翳して、弓音は薄暗い灯が点るロビーを横切った。
重たい鍵の音が響いた。弓音は下駄箱の上の皿にキーカードを載せて「いただいまー」と小さく声にする。その声は薄暗い廊下に吸い込まれていく。下駄箱の上の皿が、それは、大きな貝殻をひっくり返して小物入れに使っているものだったが、カードの重さをのせてすこしだけ揺れた。
廊下の突き当たりはリビングダイニングで、大きな窓が広めのバルコニーに面していた。朝、干したとおりに洗濯物が揺れている。からからとガラス戸を引くと、外の空気が一度に部屋に入り込んだ。この瞬間、弓音の胸がいつもぎゅうっと軋む。どうしてだろう。何かを思い出しているわけでもない。思い出のどこかの糸口になるような瞬間でもないのに、なぜなのかいつも、その一瞬、弓音の胸は軋んだ。そして、切なくなるその訳を探すように、弓音は思い出のどこかを辿っている。
たとえば学生時代の、
たとえば独身時代の、
たとえば新婚時代の、
たとえばもっと幼い日々の、
自分
低めの物干しに揺れている下着を吊るしたハンガーと、バスタオルを二枚、ワイシャツを吊るしたハンガー。弓音はそぅっと外して、窓に近いソファに置いた。ガラス戸を閉める一瞬、ふと思いついてバルコニーから夜景を見つめた。この町のどこかに、この町の、その先のどこかに、小さな明かりが灯っている。確かに、誰かがそこで生活しているのだ、と想像する。白っぽい蛍光灯はキッチンだろうか。それとも、オレンジ色の優しい光が灯っているかもしれない。それは寝室の光、だったりするだろうか。優しい言葉が交わされる、寝室。
「好きだ」とか「愛している」だとかと交わされる睦言。それでなければ、ただ「今日、学生時代の知り合いに会ってさー。」とか「今日、仕事で失敗しちゃったんだよなぁ」とか、あるいはテレビを見ながらCMの合間に「お醤油取って」とか「ティッシュ取って」とか、そんな言葉にかき消されてしまうような、そんなさり気ない他愛もないお喋りだろうか。
弓音は部屋に戻る。テーブルに投げ出された自分のハンドバッグの隣に置かれたお土産の焼き鳥の袋だけを手に取ってキッチンに向かった。焼き鳥をビニール袋ごと冷蔵庫にしまった。明日のお弁当のおかずにする。それから2リットルの水のボトルからグラスに一杯水を汲んで飲んだ。もう半分汲んで飲んで、弓音の喉の渇きはやっと潤った。まだ夫は帰ってきていない。だから、誰かに気を使う訳でもないのにそっと、何もかもをそっと、やる。それが癖になっているやり方で、そうっと、物音を立てないやり方で。
どこにもいない。
自分は、ここにもきっといない。
そんな馬鹿なことを考えるのは、静かな夜だからだろうか。