サニーサイドアップ
20.
ホワイトボードを直して、残りの倉庫の作業の続きに取り掛かろうとして、ふと喉に渇きを覚えてお茶室に入った。自動販売機が唸っている。上の段、中の段、下段とそらで言えるほど何が入っているか覚えている。弓音は小さな麦茶のパックのボタンを押して、ほんの少しだけのつもりで茶室の椅子を引いた。
(そう、初めからああして憎まれ口をきくような仲だったわけではない。)
と、弓音はここ数日陥っている思い出スパイラルの中に落ちて行った。
初めて並んで酌み交わした新歓コンパでは穏やかな、よくいる先輩と後輩だったはずだ。
二人の関係がどうしてかこのように変化したのには、とある小さな喧嘩がきっかけだった。それは、喧嘩と言えるほどのこともない些細なことだったのだ。
その年、「今年の夏は暑くなりそうだ」と誰もが言っていた。確か、そうだったと思う。今年のように空梅雨で、6月だというのにほとんど雨が降らなかった。降ったと思うと何日分もいちどきに降る様な降り方をする。その日も前の日にはバケツをひっくり返したように雨が降って、朝は部室棟の歪んだ床の所々に水溜りが出来ていた。午後になって小さくなった水溜りは、階段の手前にある大きなゆがみの部分に少し水を残すだけになっていて、その水溜りの前には缶コーヒーとペットボトルの自動販売機があった。二限目の後に、昼休みだったけれど食堂へ行かず部室棟へ行った。何か用事があったような気もするし、静かな場所を求めて部室へ行くことはよくあったから、そのときもそんなようなことだったかもしれない。階段を登ってすぐの自動販売機の前で麦茶を買おうとして財布を取り出しているところに、廊下を部室のほうから航がやってきた。挨拶をしながら弓音は麦茶を買って、それで売り切れになったのを見た航が大きな声で「俺も欲しかったのに。」と文句を言った。弓音は、とくに麦茶に拘っていたわけでもなかったので、麦茶を航に渡そうとした。
「麦茶、好きなの?」
「うん。」
「じゃ、これ。どうぞ。私、別に麦茶じゃなくてもいいから。」
「え?いいよ、俺だって別に、他のお茶にするから。ただ、ちょっと文句言いたかっただけだから。」
そう言った航は両手をジーパンの尻ポケットに入れたまま、麦茶を受け取ろうとしなかった。文句を言いたかっただけ、と言った航の顔は確かに文句を言い足りない、というような表情をしていた。
二人の足元の間に小さな水溜りがあって、航はその水溜りの端に少しつま先を付けるように足先を伸ばした。航のライトグレーのスニーカーはまだ新しくて、レモン色のラインがぴかぴかと綺麗だった。
「新しいスニーカーが」
汚れちゃうよ、と言おうとしたその言葉を押しのけるように、航が、急に言った。
「野上先輩と、付き合うの?」
野上というのは同じサークルの仲間で、確かにその数日前に弓音に「付き合わないか」と言って来た学生だった。野上は弓音と同じ学年だったが浪人していたので年齢はひとつ上で、ふたりが一年生のときから彼が弓音に好感を抱いているらしいことに弓音はなんとなく気づいていた。弓音にとってはサークルの仲間以上に思える相手ではなかったけれど、彼が三年間も弓音に想いを寄せていたことや、当時付き合っている恋人もいなかったこともあって、なんとなく付き合ってみるのも悪くないなと思っていて、「付き合わないか」と言われた時に断りようもなくて押し黙った弓音に「まずは、サークル仲間から、少し親しい友人に格上げして」と言う言葉に頷いてしまったのだった。
今思うと、野上という男ほど、優しくて弓音を思ってくれた男はいなかったと思うのに、なぜ若かった自分はあの男の優しさを物足りないだなんて思って手放してしまったのだろう。
「ねえ、野上先輩と付き合うの?」
黙ったままでいる弓音に航は重ねて問いかけて、そのときの彼の少し生意気な口調に、頭に沸いた色々な疑問符がぽんと口に乗って出てしまった。
「なんで?」
その疑問符は、なぜ航がそのことを知っているのか?という疑問であり、なぜ、航にそんなことを訊かれなければならないのか、という疑問だった。
「ゆみさん、野上先輩のこと、好きなの?」
好きなのかと聞かれれば、それこそそこに疑問符があった。分からない。航が尋ねている意味では好きとは言えない、と思う。でも、これから好きになるかもしれない、とは思ったのだ。その時航が尋ねたその一言は「好きでもないのに、付き合うのか?」と、おそらく自分の心の中に渦巻いている疑問で、それをまるで責めるような口調で言われたことに、やり場のない苛立ちを覚えた。
「そんなの、関係ない。あんたに関係ない。」
言った後で、後悔した。こんな言い方はなかった、と自分でも思った。他に思いつく言葉もなくて、弓音は思いつく言葉をどんどん重ねた。
「大門こそ。大門こそ直美ちゃん──」
「そんな話、今、関係ない。」
「あるよ。人の心配してないで自分の心配しなよ。」
立ちはだかる航を押しのけるようにして部室に向かった。弓音のローファーが水溜りを跳ねた。
幼かったのだ、と今なら思う。多分他でもないあのたった一言が、ふたりの距離をいつまでも憎まれ口ばかりを重ねる距離に離してしまった。もうほんの少し、近づき方を間違えなければ、多分今はきっと誰よりも居心地のよい友達になったはずだったのに。
(トモダチ、か──)
ストローを吸い上げると、最後の麦茶が音を立てた。弓音はパックをつぶしてゴミ箱に入れて、倉庫へ向かった。昼休みまであと1時間ある。
(そう、初めからああして憎まれ口をきくような仲だったわけではない。)
と、弓音はここ数日陥っている思い出スパイラルの中に落ちて行った。
初めて並んで酌み交わした新歓コンパでは穏やかな、よくいる先輩と後輩だったはずだ。
二人の関係がどうしてかこのように変化したのには、とある小さな喧嘩がきっかけだった。それは、喧嘩と言えるほどのこともない些細なことだったのだ。
その年、「今年の夏は暑くなりそうだ」と誰もが言っていた。確か、そうだったと思う。今年のように空梅雨で、6月だというのにほとんど雨が降らなかった。降ったと思うと何日分もいちどきに降る様な降り方をする。その日も前の日にはバケツをひっくり返したように雨が降って、朝は部室棟の歪んだ床の所々に水溜りが出来ていた。午後になって小さくなった水溜りは、階段の手前にある大きなゆがみの部分に少し水を残すだけになっていて、その水溜りの前には缶コーヒーとペットボトルの自動販売機があった。二限目の後に、昼休みだったけれど食堂へ行かず部室棟へ行った。何か用事があったような気もするし、静かな場所を求めて部室へ行くことはよくあったから、そのときもそんなようなことだったかもしれない。階段を登ってすぐの自動販売機の前で麦茶を買おうとして財布を取り出しているところに、廊下を部室のほうから航がやってきた。挨拶をしながら弓音は麦茶を買って、それで売り切れになったのを見た航が大きな声で「俺も欲しかったのに。」と文句を言った。弓音は、とくに麦茶に拘っていたわけでもなかったので、麦茶を航に渡そうとした。
「麦茶、好きなの?」
「うん。」
「じゃ、これ。どうぞ。私、別に麦茶じゃなくてもいいから。」
「え?いいよ、俺だって別に、他のお茶にするから。ただ、ちょっと文句言いたかっただけだから。」
そう言った航は両手をジーパンの尻ポケットに入れたまま、麦茶を受け取ろうとしなかった。文句を言いたかっただけ、と言った航の顔は確かに文句を言い足りない、というような表情をしていた。
二人の足元の間に小さな水溜りがあって、航はその水溜りの端に少しつま先を付けるように足先を伸ばした。航のライトグレーのスニーカーはまだ新しくて、レモン色のラインがぴかぴかと綺麗だった。
「新しいスニーカーが」
汚れちゃうよ、と言おうとしたその言葉を押しのけるように、航が、急に言った。
「野上先輩と、付き合うの?」
野上というのは同じサークルの仲間で、確かにその数日前に弓音に「付き合わないか」と言って来た学生だった。野上は弓音と同じ学年だったが浪人していたので年齢はひとつ上で、ふたりが一年生のときから彼が弓音に好感を抱いているらしいことに弓音はなんとなく気づいていた。弓音にとってはサークルの仲間以上に思える相手ではなかったけれど、彼が三年間も弓音に想いを寄せていたことや、当時付き合っている恋人もいなかったこともあって、なんとなく付き合ってみるのも悪くないなと思っていて、「付き合わないか」と言われた時に断りようもなくて押し黙った弓音に「まずは、サークル仲間から、少し親しい友人に格上げして」と言う言葉に頷いてしまったのだった。
今思うと、野上という男ほど、優しくて弓音を思ってくれた男はいなかったと思うのに、なぜ若かった自分はあの男の優しさを物足りないだなんて思って手放してしまったのだろう。
「ねえ、野上先輩と付き合うの?」
黙ったままでいる弓音に航は重ねて問いかけて、そのときの彼の少し生意気な口調に、頭に沸いた色々な疑問符がぽんと口に乗って出てしまった。
「なんで?」
その疑問符は、なぜ航がそのことを知っているのか?という疑問であり、なぜ、航にそんなことを訊かれなければならないのか、という疑問だった。
「ゆみさん、野上先輩のこと、好きなの?」
好きなのかと聞かれれば、それこそそこに疑問符があった。分からない。航が尋ねている意味では好きとは言えない、と思う。でも、これから好きになるかもしれない、とは思ったのだ。その時航が尋ねたその一言は「好きでもないのに、付き合うのか?」と、おそらく自分の心の中に渦巻いている疑問で、それをまるで責めるような口調で言われたことに、やり場のない苛立ちを覚えた。
「そんなの、関係ない。あんたに関係ない。」
言った後で、後悔した。こんな言い方はなかった、と自分でも思った。他に思いつく言葉もなくて、弓音は思いつく言葉をどんどん重ねた。
「大門こそ。大門こそ直美ちゃん──」
「そんな話、今、関係ない。」
「あるよ。人の心配してないで自分の心配しなよ。」
立ちはだかる航を押しのけるようにして部室に向かった。弓音のローファーが水溜りを跳ねた。
幼かったのだ、と今なら思う。多分他でもないあのたった一言が、ふたりの距離をいつまでも憎まれ口ばかりを重ねる距離に離してしまった。もうほんの少し、近づき方を間違えなければ、多分今はきっと誰よりも居心地のよい友達になったはずだったのに。
(トモダチ、か──)
ストローを吸い上げると、最後の麦茶が音を立てた。弓音はパックをつぶしてゴミ箱に入れて、倉庫へ向かった。昼休みまであと1時間ある。