サニーサイドアップ
29.
弓音の使う私鉄のターミナル駅は東西南北の出口があって、東と西はビジネス街、北が歓楽街で南は最近タワーマンションが立ち始めた。弓音は航に言われたとおり東口を出て大きな通りをまっすぐ歩き遠距離バスの乗り場を二つ過ぎてさらに先の銀行の角を曲がった。若い頃からよく来る街なのに案外知らなかった通りはあるものだ。知らなかったというよりも意識していなかった。知らないと意識していないには大きな隔たりがある。人生という地図においても。
タイ式マッサージ、焼き鳥屋、誂えの紳士服屋の看板を過ぎて携帯ショップとコンビニエンスストアの間の路地を入る。都心の真ん中に公園があって、入り口から少し離れた金網の前に赤いコンパクトカーが止まっていた。あれかな思うか思わないかの間に航が運転席から出てきて手を上げた。弓音は一度足を止めてそれからあえて急ぐこともせずに近づいて行った。
「よう」
と、航は言った。濃い鼈甲柄のセルの眼鏡のブリッジをくいっと押し上げる。
「よう」
と、弓音は答えた。赤いメタルフレームを人差し指の背で押し上げた。フロントガラスの向こうにバックミラーにお守りが下がっているのが正面から見える。航にしては随分可愛らしい車だ。そんな弓音の感想を察したように
「言っとくけど、俺の趣味じゃないからね。姉貴から譲ってもらったの。」
と、航が言い訳じみたことを言って、小さな車に身を屈ませながら乗り込んだ。そして身を乗り出して助手席のドアを押し開けて弓音に乗るように促した。
助手席。
ケータリングカーだったら良かった。それだったらもう席は選べない。
「んじゃ、出すよ」
弓音がシートベルトを締めたのを確認して航はサイドブレーキを下ろし、ゆっくりと車を発信させた。カーステレオから聴いたことのあるメロディーが流れる。よく聴くポップスだ、けれど歌声は入っていなくて、ピアノは優しく、力強く、よく知っている旋律を奏でる。航はハンドルの上にのせた人差し指をポンポンとリズミカルに跳ねさせていた。
車は駅前に向かう車の波を横切り右折する。人も車もみんな駅の方へ向かっていく。航の人差し指は時折ハンドルの上で跳ねる。やがて、緑色の看板が見えて車は高速道路に乗った。
メロディーラインが変わった。転調してリズムが少し変わる。よく知っている曲だ、そのことは分かる。でもこの曲がこんな風に切ないなんて知らなかった。
居酒屋で飲んだ夜、サークル仲間の近況や仕事であった彼是を話すくせに自分たちの近況を話さなかった。例えば、航は左手の薬指に指輪をしていない。けれどそれは職業柄かもしれない。そもそも8年前に会ったときはスーツを着てビジネスマンだった。あれから何があってケータリングの仕事を始めたのだろう。何があったんだろう。
曲が終わって少しの間沈黙が落ちた。どうして今日は、あまり話さないんだろう。と、弓音はふいに思う。そしてまた曲が掛かる。
「聴いたことあるね」
と、弓音は他に言うことがなくて言った。
「俺らが学生の頃流行ったやつだよ。ほら、映画のエンディングになった・・・なんだっけかな」
けれどもふたりとも、別に思い出そうとするわけでもない。「そうだな」「そうだね」と思っているだけで、ただその旋律を聴いている。
「今日は静かだね」
と弓音は言った。
「音楽を聴いてるからだよ」
と、航は答えた。
タイ式マッサージ、焼き鳥屋、誂えの紳士服屋の看板を過ぎて携帯ショップとコンビニエンスストアの間の路地を入る。都心の真ん中に公園があって、入り口から少し離れた金網の前に赤いコンパクトカーが止まっていた。あれかな思うか思わないかの間に航が運転席から出てきて手を上げた。弓音は一度足を止めてそれからあえて急ぐこともせずに近づいて行った。
「よう」
と、航は言った。濃い鼈甲柄のセルの眼鏡のブリッジをくいっと押し上げる。
「よう」
と、弓音は答えた。赤いメタルフレームを人差し指の背で押し上げた。フロントガラスの向こうにバックミラーにお守りが下がっているのが正面から見える。航にしては随分可愛らしい車だ。そんな弓音の感想を察したように
「言っとくけど、俺の趣味じゃないからね。姉貴から譲ってもらったの。」
と、航が言い訳じみたことを言って、小さな車に身を屈ませながら乗り込んだ。そして身を乗り出して助手席のドアを押し開けて弓音に乗るように促した。
助手席。
ケータリングカーだったら良かった。それだったらもう席は選べない。
「んじゃ、出すよ」
弓音がシートベルトを締めたのを確認して航はサイドブレーキを下ろし、ゆっくりと車を発信させた。カーステレオから聴いたことのあるメロディーが流れる。よく聴くポップスだ、けれど歌声は入っていなくて、ピアノは優しく、力強く、よく知っている旋律を奏でる。航はハンドルの上にのせた人差し指をポンポンとリズミカルに跳ねさせていた。
車は駅前に向かう車の波を横切り右折する。人も車もみんな駅の方へ向かっていく。航の人差し指は時折ハンドルの上で跳ねる。やがて、緑色の看板が見えて車は高速道路に乗った。
メロディーラインが変わった。転調してリズムが少し変わる。よく知っている曲だ、そのことは分かる。でもこの曲がこんな風に切ないなんて知らなかった。
居酒屋で飲んだ夜、サークル仲間の近況や仕事であった彼是を話すくせに自分たちの近況を話さなかった。例えば、航は左手の薬指に指輪をしていない。けれどそれは職業柄かもしれない。そもそも8年前に会ったときはスーツを着てビジネスマンだった。あれから何があってケータリングの仕事を始めたのだろう。何があったんだろう。
曲が終わって少しの間沈黙が落ちた。どうして今日は、あまり話さないんだろう。と、弓音はふいに思う。そしてまた曲が掛かる。
「聴いたことあるね」
と、弓音は他に言うことがなくて言った。
「俺らが学生の頃流行ったやつだよ。ほら、映画のエンディングになった・・・なんだっけかな」
けれどもふたりとも、別に思い出そうとするわけでもない。「そうだな」「そうだね」と思っているだけで、ただその旋律を聴いている。
「今日は静かだね」
と弓音は言った。
「音楽を聴いてるからだよ」
と、航は答えた。