サニーサイドアップ
35.
サラリーマン生活を40年続けて退職した父はプツリと何かが切れたように力を無くして、家族にすすめられて病院に行ったときにはもう良くなかった。俺は就職氷河期と言われた時代にそこそこ名の知れた会社に入社して父と同じようにサラリーマンをしていた自分に満足していたけれど、父の棺の炉の扉が音を立てて閉まった瞬間俺の中に何かが生まれた。生きなければいけないという使命感とかそんな風に言えば格好がいいがそんな詩的な言葉よりももっとどろどろした生理的な欲望に近い何かだ。
思い出は美化される。青春時代に琴線に触れた些細なことはちょうど絵画のように見たい部分だけを強調して見たくない部分はなかったことにされる。だから、自分でも驚くほど一途に想い続けた若い日の恋をまるで一生に一度あるかないかの恋だったと思ってしまったとしても許されてしまうような気がする。俺はもう十分に大人になって「案外がっかりするぞ」と自分を諭すこともできるほど大人になって、それなのに、あの頃と変わらないやり取りを重ねてしまえばもうひとたまりもない。
それでもまだ、ゆみさんに再会あうまではただ思い出を大事にしているだけの男だったのだけど。
まず思い出したのは喫茶店のことだった。大学の西門を出た斜交いにある。「向日葵」というのがその喫茶店の名前だけれど学生たちはみな「別館」と呼んでいた。マスターの描いた向日葵の絵が飾ってある。アイスコーヒーの美味しい店だった。
「こんな喫茶店をやりたい。」
と俺が言った。それは本気の言葉だったけれどまだ大学生だった俺が心のどこかでもう諦めてもいる夢物語でもあった。「いつか」そんな日が来るなんてたぶんない。
「ダイモンならきっといつもちゃんと真面目に作ったものを出してくれるんだろうな」
とゆみさんが言った。教室の真ん中の席で俺と先輩を見送ってくれたときみたいな優しい顔をしていた。
「でも、ダイモンは料理できるわけ?いつも目玉焼きしか出てこない喫茶店とか、やだよね~」
だけど、俺はもういつもみたいにバーカと返すことができなかった。「チョウゼツシンケンに、セイシンセイイ、」と高校の学食の黒い箸を持って語っていたゆみさんの声がいま目の前で笑っているゆみさんの声と重なった。
「いつか、かなえたら、真面目に淹れたコーヒー出してよね」
いま、そういったよね、俺は確かめるようにゆみさんを見つめた。ゆみさんも俺を見ていた。俺は急にそのことに気が付いて
「なんだよ」
と言った。いつもみたいに憎たらしく言えなかった。な、ん、だ、よ、と 好きだよの四文字は同じイントネーションだ。
と思った。
「仕事だから」という魔法の言葉がある。サラリーマンなら誰でも使っている呪文だ。どんな職種であったってどんな仕事の内容であったって、仕事をしていればトラブルはあって、だけれどどんなトラブルも、小さくても大きくても「仕事だから」と思えば大したことではない。毎日、毎日を生きて、この人と添い遂げようとあるときに決めた妻のために、いつか子どもが生まれたらその子のために、家と職場を往復する。そしていつか会社から「もういいよ」といわれる日まで。
目玉焼きという料理はかんたんな料理の代表のように言われることが多いけれど、実はそんなにかんたんな料理ではない。と知ったのは当時の妻と結婚してからのことだった。「超絶真剣に」「誠心誠意」やらないと思い通りの目玉焼きは作れない。なんなら、超絶真剣に誠心誠意やったってうまくできないことだってある。
うまく説明できないけれどそのふたつの事実が自分の中でどんどん膨らんで俺は急に喫茶店をやろうと思いついた。仕事だから、超絶真剣に誠心誠意、卵を割ろう。仕事だから、超絶真剣に誠心誠意、目玉を見守ろう。仕事だったらいつか真面目に淹れた珈琲だよと弓音さんの前に出すことができるだろうか。朝ごはんのようなメニューと一緒に、仕事だったら。いつか弓音さんにまた会えたら。
喫茶店を始めようと思った俺はまず「向日葵」を訪ねた。毎週末訪ねて、参考になりそうな本を読んで、たまにはいろんな喫茶店を偵察と称して巡ったりもした。必要な許可証を取るために知らないことやできないことは調べたり学んだりした。人生についても学んだ。誰かと一緒に生きるということの難しさを自分はあまりにも軽視してたんだな、ということが分かったのもその頃だった。
「いつかは」と思うことがあってもそれが必ず叶うわけではない。そんなことは百も承知だ。それでもよかった。細い糸のような、今にも切れてしまいそうな何かが、それでも切れてしまわずに自分の中にあって、絡まって、そこにあり続ける限り。人はそれは夢とか希望とか願望とか妄想とかそんな風に呼ぶのではないかと思う。途切れてしまいそうに細くても、その糸は俺を支えるには十分な強さがあった。
思い出は美化される。青春時代に琴線に触れた些細なことはちょうど絵画のように見たい部分だけを強調して見たくない部分はなかったことにされる。だから、自分でも驚くほど一途に想い続けた若い日の恋をまるで一生に一度あるかないかの恋だったと思ってしまったとしても許されてしまうような気がする。俺はもう十分に大人になって「案外がっかりするぞ」と自分を諭すこともできるほど大人になって、それなのに、あの頃と変わらないやり取りを重ねてしまえばもうひとたまりもない。
それでもまだ、ゆみさんに再会あうまではただ思い出を大事にしているだけの男だったのだけど。
まず思い出したのは喫茶店のことだった。大学の西門を出た斜交いにある。「向日葵」というのがその喫茶店の名前だけれど学生たちはみな「別館」と呼んでいた。マスターの描いた向日葵の絵が飾ってある。アイスコーヒーの美味しい店だった。
「こんな喫茶店をやりたい。」
と俺が言った。それは本気の言葉だったけれどまだ大学生だった俺が心のどこかでもう諦めてもいる夢物語でもあった。「いつか」そんな日が来るなんてたぶんない。
「ダイモンならきっといつもちゃんと真面目に作ったものを出してくれるんだろうな」
とゆみさんが言った。教室の真ん中の席で俺と先輩を見送ってくれたときみたいな優しい顔をしていた。
「でも、ダイモンは料理できるわけ?いつも目玉焼きしか出てこない喫茶店とか、やだよね~」
だけど、俺はもういつもみたいにバーカと返すことができなかった。「チョウゼツシンケンに、セイシンセイイ、」と高校の学食の黒い箸を持って語っていたゆみさんの声がいま目の前で笑っているゆみさんの声と重なった。
「いつか、かなえたら、真面目に淹れたコーヒー出してよね」
いま、そういったよね、俺は確かめるようにゆみさんを見つめた。ゆみさんも俺を見ていた。俺は急にそのことに気が付いて
「なんだよ」
と言った。いつもみたいに憎たらしく言えなかった。な、ん、だ、よ、と 好きだよの四文字は同じイントネーションだ。
と思った。
「仕事だから」という魔法の言葉がある。サラリーマンなら誰でも使っている呪文だ。どんな職種であったってどんな仕事の内容であったって、仕事をしていればトラブルはあって、だけれどどんなトラブルも、小さくても大きくても「仕事だから」と思えば大したことではない。毎日、毎日を生きて、この人と添い遂げようとあるときに決めた妻のために、いつか子どもが生まれたらその子のために、家と職場を往復する。そしていつか会社から「もういいよ」といわれる日まで。
目玉焼きという料理はかんたんな料理の代表のように言われることが多いけれど、実はそんなにかんたんな料理ではない。と知ったのは当時の妻と結婚してからのことだった。「超絶真剣に」「誠心誠意」やらないと思い通りの目玉焼きは作れない。なんなら、超絶真剣に誠心誠意やったってうまくできないことだってある。
うまく説明できないけれどそのふたつの事実が自分の中でどんどん膨らんで俺は急に喫茶店をやろうと思いついた。仕事だから、超絶真剣に誠心誠意、卵を割ろう。仕事だから、超絶真剣に誠心誠意、目玉を見守ろう。仕事だったらいつか真面目に淹れた珈琲だよと弓音さんの前に出すことができるだろうか。朝ごはんのようなメニューと一緒に、仕事だったら。いつか弓音さんにまた会えたら。
喫茶店を始めようと思った俺はまず「向日葵」を訪ねた。毎週末訪ねて、参考になりそうな本を読んで、たまにはいろんな喫茶店を偵察と称して巡ったりもした。必要な許可証を取るために知らないことやできないことは調べたり学んだりした。人生についても学んだ。誰かと一緒に生きるということの難しさを自分はあまりにも軽視してたんだな、ということが分かったのもその頃だった。
「いつかは」と思うことがあってもそれが必ず叶うわけではない。そんなことは百も承知だ。それでもよかった。細い糸のような、今にも切れてしまいそうな何かが、それでも切れてしまわずに自分の中にあって、絡まって、そこにあり続ける限り。人はそれは夢とか希望とか願望とか妄想とかそんな風に呼ぶのではないかと思う。途切れてしまいそうに細くても、その糸は俺を支えるには十分な強さがあった。