ひと夏の救い
反射的に腰が引けた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ…でも、腰が抜けてしまって思うように身体が動かない…!
「まさか本物に逢えるなんてびっくりしたよ。もしかして、君も僕のこと知ってたの?絶対にバレてないと思ったのに、流石は才女の明ちゃんだ。嬉しいなぁ、これで僕達、『両想い』だねっ」
どし、と重い身体が床に沈み、僅かに軋んだ音がする。押し退けたり、突き飛ばすことは私程度では絶対に出来ないだろう。
男が言った言葉に混乱する。
何、言ってるの?意味がわからない。知らない人だし、今初めて会ったのに、この人が言ってる事が…怖い。だって、名前を知っている、私のロッカーを知っている、才女と言うことは普段の私の成績も知っている、そして何より気味が悪いのは…それは『随分と前から続いていた』って事。
近づく度に大柄な背丈で見下ろされる形になっていく。男の顔から目を離せなくて自然と上に首が傾く。相変わらず口から何かを言える気がしない。
とうとう、手を伸ばせば届く程に距離が縮んでしまった。
むわっと眼前に広がる脂っぽい臭いと汗の臭いに鼻が曲がりそうだ。熱気まで伝えてきて、とにかく近くには居たくない人の特徴上位が詰まったような男。
ゆっくり体操着を持っていない方の手がこちらに向き伸びてきた。
そこでようやく私の体は少しだけ言うことを聞く気になったらしい。
後数ミリで触れるという時になって、掴まれそうになった腕を慌てて後ろに引っ込ませた。それを追うように前のめりに屈んできた巨体から逃れる為に、更に片足を後ろに下げる。
目の前の男の空気が明らかに淀んだのを感じて、それに当てられたのか身体の麻痺みたいなものが解けたのか分からないけれど、とにかく私は息を飲み込んで勢いよく元の道に駆け出そうとした。
「…っ!!?」
「逃げんなよ」
今までの緩慢な、鈍いとも言える動きからは考えられない速さで後ろに振りかぶった腕を肩を脱臼しそうな乱暴さで引っ張られ、自分の体操着袋で口を塞がれた。
真上から先程の呑気な話し方とは真逆の低い声で押し潰されるような気持ちになり、ビクッと震えるも、嫌な予感を察してジタバタ足掻き、手で男の腕を振り払おうとする。でもやはり先程考えた通り、全く及ばない力はただの悪足掻きでしかない。
「もう遅いの。さ、一緒に行こっか」
男は少女を一人連れ元の教室に入っていき、今度は隙間も無い状態にしっかりと扉を閉めた。