ひと夏の救い
ゆっくりと、宥めるイメージを意識して私の口を塞ぐ男の分厚い手の甲を撫でる。くすぐったかったのかピクリと反応した手に小さく笑いつつ、もう一度私の名前を呼ぶ声に返すようにポンポンと優しく叩いて返事をする。
身動ぎも止めて大人しくなった私の何か言いたげな様子が伝わったらしく、警戒した手の強張りは解けないまでも何を言う気か気になるようだ。
上から更に伸し掛るように覗き見られながら手を外される。
背中と頭上に感じるその何とも言えない重さと熱に身震いしそうになるが、何とか片方の手のひらに爪を立てて顔に出すのを耐える。
覗き込む目と目が合ってむしろニコリと微笑んでやれば、汗に濡れた丸い顔が赤く腫れたようになった上、にちゃりという音とともに歪に歪んだ表情を見せた。分かりづらいが、笑ったのかもしれない。
「あの、お名前は?」
「え…なんで」
「あら、私たち初対面でしょう?初めまして、ですから。初めはお名前を聞かないと。それに、こんなに私を見てくれる人いなかったのだもの。折角現れてくれた『運命』の人の名前を知らないなんて悲しいでしょう?」
「う…うんめい…?」
我ながら下手な問いかけだ。まず男の正体を突き止めなければ、情報の採集を、そんな考えからとても単純な方法に行き着いた。
脈絡も無く、下手な煽りと煽て。ゴマすりと言ってもいいほど見え透いている魂胆。
とても言い訳をしたい。だって私はまともに友達が出来たことも無ければ、つい最近までずっと独りきりでいた、いわゆるコミュ障と言うもので。
コミュニケーション能力は知識だけではどうにもならない、経験がものをいう、そういったものでしょう?
経験が皆無。ずっと人と接してこなかった私が、いきなり初対面の人間を誘導してあれやこれや吐かせたり、言葉巧みに油断させて楽々逃走。なんて出来るわけないでしょう!!
口の端がひくつきつつも何とか笑顔を保っているだけでいい方よ!
自分らしくもない行動に恥ずかくて舌を噛み切りたい衝動に駆られるが、更に指を手のひらにくい込ませることで何とか表情がピクつく程度に抑える。
それより、何だか歯切れが悪い声だった。こう言う言い方がお好みかと思ったけれど、勘違いだったかしら…?
唾を飲み込んで顔を確認してみる。
見上げた先の表情は、今まで見た中でも飛び切り輝いていて、喜色満面といった具合だった。
コミュニケーション能力が明らかに欠如した自分でも何とか上手くいった事に小さくほっとしつつ、こんな簡単に喜んでしまえる大の大人(に見える)男に羨ましいというか呆れたというか気色の悪いというか、何だか複雑な気分になった。