ひと夏の救い
---紛らわしい!!!
心底ホッとした様にはああと息を吐きながら
松井さんはそう言った。
「なんだぁ!
荒峰さんも怖いんだ、ヤクザ!
最近漫画で見たヤクザは
『関わった人間はケス』、
『ごくあくヒドウ』の人達だったから
あたしも消されちゃうのかなって怖くて怖くてっ」
良かった良かったと仕切りに頷く松井さんを見て
私は呆れる。
漫画の中と現実を重ねるだなんて、
私はとんだ迷惑な妄想に巻き込まれていたみたいね。
…はああぁぁ。
というか、
松井さんは本気でそんなことを信じていたのかしら。
でも、私が一言『違う』って言ったら
こんなに安心しきった顔をしちゃって。
私の中で何かがウズウズと騒ぎ出した。
ついそれが口から出てしまう。
「--というのは嘘で、噂は間違っていないわよ?」
よせばいいのに、
あんまりコロコロ表情が動く松井さんが面白くて、
今まで感じたことの無い悪戯心(いたずらごころ)、
なんてものが
湧いて来てしまった。
私がその言葉を発した瞬間。
ピタッと良かった良かったを止めた松井さんが、
チラリと恐る恐る私を上目遣いした。
そしてその顔には早くも冷や汗が流れ始めている。
思わず「ぷっ」と口から笑いが漏れ出てしまったわ。
何て信じ込みやすい素直な人なのかしら。
私が出会った人達の誰とも似ていない。
一々いい反応をしてくれる松井さんに、
私は初めての感覚を覚えつつあった。
一緒にいても疲れなくて、
柄にも無くからかったりなんかして、
そして見ていて飽きないと思う。
今までに、感じたことの無いこれは例えるならば--。
ペット…かしら。
「なんてね、冗談よ。」
思わず吹いてしまった時から口が緩むのをとめられなくて、
その緩んだ口のまま
それを隠そうと手の甲を口に押し当ててそう言うと、
口をぽっかり開けた変な顔の松井さんの頬が
薄ピンクに染まっていた。
窓も開けていない蒸し暑い教室だから、
顔が赤くなってしまったのかもしれない。
そう思った私は教室の窓に近寄って、
まだ夜なので幾分かマシだろうと
外の空気を招き入れた。
ふわりと夏の空気が蒸し暑い教室に入り込んでくる。
振り返って松井さんを見てみたら、
一層顔を赤くして窓辺に立つ私を見て口を開けていた。
…なぜ?
私はただただ困惑して小首を傾げた。
荒峰明は知らない。
『氷姫』と呼ばれる彼女の笑顔を誰も見たことが無く、
ただ吹き出しただけでも珍しすぎる上に綺麗で、
本当にお姫様のように見えたこと。
それに窓辺に立って風を纏ったのが、
松井の目に風の精霊の様に見えた、
なんて事も。
本当は自分の美少女しかりとした容貌(ようぼう)に
自覚のない今の荒峰明は、
疑問符を脳内に浮かべるだけで
知るよしもないのだった。