泣き虫イミテーション
橘の顔が近づいてきたとき、確かにキスされると思ったのに、その唇は2cm手前で止まっていた。かわりに甘い香りがして、鼻先が頬に触れた。

思いあっても結ばれない二人を演じているけれど、橘二衣というひとはこちらを見てはいない。視界に入っているかも怪しいものだ。彼女が俺を選ぶ理由に面白そうだから以外が見当たらない。確かに一途な方だとはおもうけれど。

舞台が終わってから橘に初恋はいつかと聞かれた。確か小三のときだと答えると、橘は静かに笑った。

橘二衣。

二番目に好きになった人ということは、彼女の望む、世界で一番好きな人に橘二衣を選ぶはできないのだろうか。初恋は特別だから、初恋のあの人は別格だろうか。

曖昧な世界一が横たわっているから、わからなくなってしまう。わからないけれど、でも、俺は橘二衣を好きになってしまったわけだ。

新しく配られた台本だがロミオのセリフにほとんど変更はない。婚約者という新しい役のせいで増えたセリフはジュリエットに集中している。まあ、あの天才ふたりなら一晩でこれくらいどってことないのかもしれない。

初恋といえば、出会った年齢からして朱本は橘にずっと初恋をしているわけだ。それは橘以外への恋を知らないということ。ひたすらに盲目に彼女を好きでいられる魔法が朱本にはかけられている。

どの面から見ても俺が朱本に勝てる理由などなく、橘が俺を選ぶ理由なんて見当たらない。それは好きの重さもまたしかり。朱本の方が俺より橘を好きなんだと思う。

勝ち目のない戦いに挑む馬鹿はいない。

それでも止まれないのが恋だというのなら、この衝動は罪でしかない。

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