私の優しい人
「僕たち、ずっとこの話をしてこなかったから、丁度いい」
 彼は私の涙にも慌てる事なく続けた。

 声は凄く冷静で、ここにある温度差が今は悲しい。

 彼からすれば、避けていた訳じゃないけど、まだ必要ないと思っていた話なのかもしれない。

 そうだよね。最初からそう宣言してたもん。
 私もそれを受け入れた。

「里奈ちゃんの事が好きだよ。だから、今までは考えもしなかった結婚が現実に近づいてきた」
 彼が差し出すブルーのハンカチを、ありがとうと手で制す。

 自分のハンカチを広げて、醜い自分を隠すように顔に当てた。

「でも、まだ早すぎるんだ」
 私の体が衝撃で跳ねた気がした。

 個室で良かった。
 結婚を急かすような事をしてしまった。

 そしてそれを断られた。
 悲しいくて、恥ずかしい。

 どっちの気持ちがが大きいなんて分からない。

 悲しさと恥ずかしさが混ざって、心臓が現実の痛みとしてぎゅっとなった。

 席を移って私の隣に来た啓太さんが、強く手を握ってくる。
「ごめんね」
 ごめんねって私のセリフだから。

 今口を開くと、ごめんなさいしか出てこない。きっと。

 ごめんなさい、喋れない。
 ごめんなさい、困らせて。
 ごめんなさい、大事な出張前なのに。
 ごめんなさい、最初から分かっていたのに。

 私の涙が止まるまで、啓太さんは黙って隣にいてくれた。

「遠距離になっても、上手くやっていけるよ」

「うん。大丈夫。私、根性だけはあるから。遠距離、頑張れる」
 彼から初めて飛び出した遠距離の言葉。

 これ以上心配かけないように、しっかりと返事をした。

 やっぱり遠距離か。

 彼を安心させようと微笑むと、彼も戸惑うような笑顔を返してくれた。

 私の言葉が彼を傷つけた気がした。

 お互いに気遣い合っているのに、どこか噛み合っていない。
 同じ方向を見ているはずなのに、どこかでずれている。

 その事実がもう一度泣きたい気分にさせた。

 啓太さんとお付き合いするようになってから、アイメイクは殆どしなくなっていた。

 黒い涙にならなくて良かった。

 回避できた小さな不幸。

 現実的な事がきちんと回る頭にほっとする。

 とはいえ、腫れた顔はなかなか引いてくれず、ポーチに常備してあるマスクを装着して店を出た。
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