私の優しい人
 ふと、バックの中からの小さな振動音に気付く。

 バックインバックの中で隠れていたそれをようやく取り出し、母を起こさないように、そっとリビングを出で、二階の自分の部屋へ向かう。

 啓太さんからのコール。

 着いたよメールはまだしていないけど、どうしたんだろう? と疑問に思いつつ慌てて出た。

「もしもし?」

「もう家には着いてるよね。今いい?」

「うん。もう家。啓太さんは着いたの?」

「今、駅に着いたところ」
 聞こえてくる音には外を感じさせる騒めきがある。


 階段を登り切り、自分の部屋のドアを後ろ手に閉めて、そこにもたれかかる。

 二階の南向きの部屋は、ベランダへと続く掃き出し窓の全面から眩しいほどに陽が注いている。
 下にいた時よりも数段明るい。

「電話なんて、どうしたの?」

「気になって、ずっと考えてたんだ」

「何か……気になる事でもあった?」
 彼の真剣さが伝わる声に、思わず声がすくむ。

「君が、里奈ちゃんの様子がちょっと違ってたかなって」
 私が、違う?

 どう答えていいか、わからなかった。

「里奈ちゃんは隠すのが上手だから、気になり始めたのは電車に乗ってからだった。
 ほんの一瞬だったんだけど、やっぱりそうじゃないかって。直感じゃなくて、今まで里奈ちゃんを見てきた僕の経験で」

 ――もしかしたら、泣いてるんじゃないかって。

「ちゃんと話がしたい。だから、今からまた戻るよ」

「戻る?!」

「うん。君はそこに居て。僕がそっちに行くから」

「う、ん?」
 彼の突然の行動に頭が付いていけない。
 私は泣いていない。

「きちんと話をしよう。きっと一方的に里奈ちゃんの方が失う事の多い話になっちゃうから。その後、君が考えすぎて、ぼーっとして何か事故でも起こしたら困るし」
 笑う彼の顔が浮かぶような、いつものからかい方。

「本当はずっと後でいいって思ってたんだ。里奈ちゃんも受け入れてくれたから、それでいいって。でも今、考えを改めた。シンプルに考えればいい。結婚のメリットは好きな人とずっと一緒に居られる事だ」

 思いがけず飛び出した、結婚という単語に鼓動が早まった。

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