嘘と正義と、純愛と。
あの日、痴漢から助けてくれた人が、職場で抱きしめてくれた人。
何度もこうして引き寄せてくれた人。
ひとことじゃ表せない感情が溢れ出す。

一体なにが私に起こっているの? こんな夢みたいなことってあるの?

瞬きもせずに斎藤さんを見つめると、彼は何も口に出来ない私をもう一度抱き寄せた。
洗剤の匂いでも、香水の匂いでも、カーコロンの匂いでもない。
……彼自身の匂い。

うまく例えられないけれど、あったかい香り。
お日様とはまた違う。もっと、静寂にひっそりと包み込んでくれるような……夏の夜空みたいな感じ。

斎藤さんの胸の中で、私はいつぶりだかわからないくらいに他人に身を委ね、安心した。
目を閉じると、このまま時間が止まってしまえばいいって思った。

「あの男とは、さっさと離れたらいい」

心地よさに浸っていた私に、痛い言葉が突き刺さる。
現実逃避してただけだって気付かされた私は、パッと斎藤さんと距離を取った。

広海くんと、離れる……?
そうしたら私、ここから抜け出せるの?

揺るがせた瞳に斎藤さんを映し出して考える。

ここから抜け出した後はどうなるの? 斎藤さんがこうして抱きしめてくれるの?

今までこんなふうに迷ったことなんかなかった。
広海くんとの関係に疑問を感じたことがあっても、他の男の人と天秤に掛けるような状況なんてなかったから。

広海くんとの関係を断ち切ったら……自由になれる。
だけど、自由になったところで、私はどうしたいの? ただひとりになるだけなんじゃないの?

「――まぁ、決めるのは本人か」

斎藤さんは、そういうと「ふっ」と小さく笑って踵を返した。

「じゃあな」

ポケットに手を入れて去っていく背中を何も言えずに見送る。
雑踏に紛れて彼の姿が見えなくなっても、私はそこから動かずにいた。

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