嘘と正義と、純愛と。
俯いた私は、当然彼が今どんな顔をしているのか。どこを見ているのかなんてわかるわけがない。

けれども、背中に回されている手はとても優しかった。
さきほど痴漢に向かって出した鋭い声に似つかわしくないほど、温かい。
途端に恐怖とは別の鼓動を感じる。

「あのさ。助けてほしい時は、デカい声でそう言えよ」

胸に響く声でそう言われた瞬間、無意識にまた顔を上げてた。
すると、さっきは合わなかった目がぱちりとぶつかって、何を言えばいいのか真っ白になる。

帽子から出ている彼の髪は少しくせ毛なのかうねっていて、長めの前髪の隙間から覗く、ややつり上がった二重瞼が迷いのない瞳をしているように思えた。

さっきちらりと見えた彼の目は、綺麗な紫黒色。

今、聞こえた艶っぽい声と同様に、色気を漂わせる彼の目に、心を奪われそうになる。

茫然として、立ち去っていく彼の背中を見つめる。
同時に、彼の残り香らしきものに意識が引かれた。

なんだろう……この香り。

改めて鼻に意識を向けて、目をキョロッと動かす。
言葉でうまく表せない香り。だけど、嫌いじゃないし、むしろ……。

薄れていく香りに伴って、その答えに行き着くことも出来なくなる。

次の電車が来る頃には、その匂いを思い出すことも出来なくて、少しモヤモヤとした気持ちのまま、勤務先へと向かった。


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