黄昏と嘘
しかし電子辞書返してくれた時、あれはチサトの名前知ってるからこそ、彼が彼女に返すことができたということなのだから彼女の名前は「日ノ岡 チサト」とはちゃんとわかっているはずだ。
アキラはチサトを名前で呼びたくないのだろうか。
でも名前を知っている以上、ちゃんと名前で呼ぶのは当然なのではないだろうか。
「おい。聞えてるんだろう?返事くらいしたらどうなんだ?」
さっきから返事もせずにぼんやり立ち続けるチサトにアキラの声が少し怒ったようになる。
……あ。さっきの先生の曲、フレデリック・ショパンのノクターン(夜想曲)……だ。
そっか。確か、何か映画で聴いたことがある……。
それも古い、昔の。
チサトはアキラの指先を見つめながらそんなことを思い出した。
そして彼女の脳裏にアキラが弾いていたピアノの旋律が蘇り、また涙がおちそうになり、うつむく。
「聞こえないのか!」
返事をしないチサトにアキラはつい声を荒げてしまう。
ハッとチサトは我に返り、うつむいたまま慌てて謝るが言い訳が続かず、さっきの泣きそうな感情のせいで声が小さくなる。
「えっと、すみません、あ……」
アキラは今のチサトの少し震えた小さな声が自分の苛立った声のせいかと思ったのか、一瞬、彼の手が止まり気遣ったようにうつむいた彼女の方を見たが、またすぐに顔を背けた。
彼の気配にチサトは顔を上げたが、さっきの一瞬の気遣ったようなアキラには、その時うつむいていた彼女は気付きもしなかった。