この時代に剣客が現れて剣道部に入ってしまったよ。
又四郎がハルを家へ連れて帰ってきた日の夜。
ハルは自ら命を絶った。
風間正元の悲しみは、深く、尋常ではなかった・・・。
その知らせは、又四郎達にも届いた。
あの帰り道、なぜハルがあんなに泣きじゃくっていたのか、又四郎には解らない。
ただ、ただ、大切な何かを傷つけられて、奪われてしまった喪失感が、又四郎の心深くに、突き刺さっていた。
報せを聞いた又四郎は、それが恋心だったのだと自覚すると同時に、ハルに対して、何も言ってやれなかった罪悪感が、堰を切ったように、体と心に濁流となって流れ出す感覚を、慟哭となって、嗚咽となって全て吐き出した。
のた打ち廻るように哭いた。
絞り出す様に叫んだ・・・。
ハルの葬儀が済み、笹岡家から見舞金が届く。
その金を持って、風間正元は殿様に直談判に向かった。
娘の仇討ちをしたいと。
洗いざらい殿様に話した風間は、笹岡の息子と仇討ちが認められた。
仇討ちが決まった日、高柳家を訪れた風間は、後見人を又四郎の父に託した。
悲愴な覚悟の風間を見た又四郎の父は、その役目を快く引き受けた。
その日の夜、風間正元宅から火の手が上がった。
道場を含む母屋、納屋、倉庫の全てから一斉にである。
火が上がる前に、頭が痺れるような感覚に陥ったと、近隣の住民は話していた。
発見された遺体は、起きた様子もなく、乱れた外傷もない。
道場に寝泊まりする全員が焼け死ぬという、大災害にも関わらず、奉行所は細部まで捜査を行わず、幕引きされた。
この火災で、風間正元と家族全員が焼死し、風間家は断絶してしまう。
ハルの死から、四十九日も経たない内に、風間家全員が死に絶えてしまったのだ。
風間家を焼き討ちした犯人は解っていた。
誰もが解っていたが、糾弾する事が出来なかった。
おそらくは奉行所にも圧力を掛けて、捜査はうやむやのままにされた。
剣術指南役の後継は、風間一門ではなく、高柳家に打診があった。
急遽、江戸に修行に出していた長男が戻り、高柳家が剣術指南役に取り立てられた。
又四郎の父親は、風間の跡を他の流派や、知らない人間に継いで欲しくはなかった。
不本意ながら、笹岡家庇護の元、剣術指南役を受けざる得なかった。
笹岡の権勢は、いよいよ高まっていた。
敵であった風間家を、強引に排斥し、目の届く場所に、敵の勢力を据えて牽制し、更に殿様に対して絶大な信頼を得るため、金をばら蒔いた。
笹岡に反発する者は、容赦無く粛清。
又四郎が十五才を終えるまでには、盤石の体制が固められていた。
笹岡は風間の事件を切っ掛けに、前にも増して、権力を手にする結果に成った。
笹岡忠亮にも刃向かえる人間は居なくなった。
ハルが死んで、百日が過ぎた。
又四郎は風間家の墓前に花と線香を供え、手を合わせた。
連日、又四郎の父親の元には笹岡に対する不平や不満の声が届いている。
もはや、剣術処ではない。
兄は城内の武士達をまとめる事で手一杯である。
又四郎は江戸に出る事を、母親に告げた。