きなこ語り~キスの前、キスの後~
結局、颯太くんはお布団にこそ入らないものの、三人がけのソファで横になって寝ることになった。
彼女の見立て通り、疲労が溜まっているらしい颯太くんは、横になって幾らもしないうちに寝息をたて始める。
(私が乗っていたクッションは奪われ、颯太くんの枕になった。)
みいちゃんは、颯太くんが眠るソファを背もたれに、ラグが敷かれているローテーブルとソファの間でペタリと座り込み、今度はコードレスヘッドホンを装着して映画観賞を再開。
手持ち無沙汰な私はと言うと、みいちゃんの隣で仰向けになって、彼女にお腹を撫でてもらっていた。
聞こえるのは空調の音と、颯太くんの小さな寝息と。
みいちゃんのヘッドホンから時折漏れ聞こえる小さなシャカシャカという音だけだ。
この部屋の中、今、この瞬間。
とても静かで、平和な時間だった。
彼女を取り巻く環境を思えば、そんなの錯覚なのだけれど。
それから、どのくらい時間が過ぎただろうか。
ずっとラグの上に座り込んでいたみいちゃんが、動く気配を感じた。
少し前に映画観賞は終えていたけど、颯太くんを起こしたくないらしい彼女は、しばらくの間、そのままテレビ番組を見ていた。
が、それも終わりにするようだ。
みいちゃんがヘッドホンを外し、上半身だけ向きを変える。
そして、颯太くんが眠る傍に頬杖をついて、その寝顔を眺めながら、
聞こえるか聞こえないかくらいの、とても小さな、囁き声で話し出した。
私は何とは無しに、前足の爪の伸び具合をチェックしながらその声に耳を傾ける。
「すんごい爆睡してる……」
「目の下、うっすらクマ出来てるし」
「ただでさえ大学院で忙しいのに、バイトもして、私の送迎までやってるからだよね」
「ありがとう。でも、ごめんね」
「颯太も、たかが『妹みたいな幼馴染』なのにこんなに気にかけて。こんなに忙しかったら、きっと彼女は放ったらかしだよ」
「……大丈夫かな。もし、別れちゃったら……」
「………」
そのあと続く沈黙に、私は爪チェックを中断して彼女を見上げた。
別れちゃったら、の後にはどんな言葉か続くのだろうか。
じっと待っていたら。
「なんて、私がこんなこと言うのも余計なお世話か」
小さく呟くと、「ね、きなこ」と同意を求めるように私の顔を見て口角を上げた。
そうすることで口許に笑みを浮かべようとしたみたいだけど、笑ってるように見えなかったのは、気のせいだろうか。
そのとき、外から夕焼けこやけのメロディが聞こえてきて、みいちゃんが壁の時計に視線を向けた。
「5時だ。そろそろ、起こした方がいいかな」
そう言うと立ちあがり、中腰で颯太くんの肩を優しく叩きながら、先ほどより大きな声で彼に声をかけた。
「颯太、そろそろ……」
彼女の言葉が不意に途切れた。
見ると、颯太くんの肩へ置かれた彼女の手には、彼が自分の手を重ねられている。
彼女の手首から、ほっそりとした指先まで全部、大きな手のひらにすっぽりと包まれていた。
そして、まだ眠気は取りきれないようだけれど、深い眠りで閉じていたはずの目は開かれていて、みいちゃんを見つめている。
一瞬、驚いて固まっていた彼女は、そんな颯太くんを寝ぼけてるんだと判断したらしく、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「起こしちゃった? ごめんね。でも、もう夕方だから、たぶんお父さんとお母さんも帰ってくる…」
言いながら手を引き抜こうとしたけれど、颯太くんが瞬時に、手のひらに力を込めて阻止する。
「颯太?どうしたの?なんで、手…」
戸惑いの色を見せる彼女に、颯太くんがようやく口を開いた。
「瑞季」
「なに?」
「『たかが』なんて言うな」
みいちゃんが顔を真っ赤にして狼狽えながら言った。
「聞いてたの?寝たフリなんてズルいよ、もう。
ね、それより手、離してってば」
今度こそ手を引き抜こうと、みいちゃんが身を捩るけれど、颯太くんの手はビクともせず、彼女が離れることも許さなかった。
颯太くんがみいちゃんの手を掴んだまま、空いているほうの肘を立てて上半身を軽く起こすと、彼女の手をグッと引っ張った。
「ちょっ…と、颯太!」
バランスを崩してしまった彼女は、颯太くんの胸に飛び込むような体勢になった。
その拍子に、颯太くんの体にかけられていたタオルケットが音もなく滑り落ちてきたので、
私は咄嗟にローテーブルの下に体を滑り込ませた。
颯太くんのニットについている柔軟剤の匂いと、
みいちゃんの揺れる髪から香るシャンプーの匂いが、
混じってフワリと、私の鼻をかすめる。
さらに縮まった、二人の距離。
みいちゃんは、ますます真っ赤に染まった頬を隠すように俯きながら、
それでも自由になるほうの手を突っ張り、傾いた体が颯太くんに
倒れこまないよう必死に踏ん張っている。
颯太くんが、強引な手つきとは裏腹な、静かな声音で言った。
「瑞季。『たかが』じゃない」
みいちゃんが、顔を上げる。
距離の近さに、目を大きく見開いていた。
「お前はそんな、どうでもいい存在なんかじゃない」
「え?」
ソファに触れている方の彼女の手が、かすかに震えている。
「瑞季は、俺の」
みいちゃんをじっと見つめながら、颯太くんが口を開いたそのとき。
玄関から、鍵を開けるガチャガチャという音が聞こえてきて、飛び退くように彼女はソファから体を離した。
「か、帰ってきたからっ」
そう言い残して、みいちゃんは逃げるようにリビングから出ていった。
パタパタと走るスリッパの音が遠ざかり、リビングには
颯太くんと私だけになった。
颯太くん、何を言うつもりだったの?
教えてよ。
もしかして今なら言いたいことが通じるかも、と思った私は、小さくにゃあ、と鳴いてみる。
けれど、彼はそれには反応しなかった。
代わりに、はあ、と息をひとつ吐いてから体を起こすと、無言でラグに落ちたタオルケットを手早く畳んで、リビングから足早に出ていった。
彼女の見立て通り、疲労が溜まっているらしい颯太くんは、横になって幾らもしないうちに寝息をたて始める。
(私が乗っていたクッションは奪われ、颯太くんの枕になった。)
みいちゃんは、颯太くんが眠るソファを背もたれに、ラグが敷かれているローテーブルとソファの間でペタリと座り込み、今度はコードレスヘッドホンを装着して映画観賞を再開。
手持ち無沙汰な私はと言うと、みいちゃんの隣で仰向けになって、彼女にお腹を撫でてもらっていた。
聞こえるのは空調の音と、颯太くんの小さな寝息と。
みいちゃんのヘッドホンから時折漏れ聞こえる小さなシャカシャカという音だけだ。
この部屋の中、今、この瞬間。
とても静かで、平和な時間だった。
彼女を取り巻く環境を思えば、そんなの錯覚なのだけれど。
それから、どのくらい時間が過ぎただろうか。
ずっとラグの上に座り込んでいたみいちゃんが、動く気配を感じた。
少し前に映画観賞は終えていたけど、颯太くんを起こしたくないらしい彼女は、しばらくの間、そのままテレビ番組を見ていた。
が、それも終わりにするようだ。
みいちゃんがヘッドホンを外し、上半身だけ向きを変える。
そして、颯太くんが眠る傍に頬杖をついて、その寝顔を眺めながら、
聞こえるか聞こえないかくらいの、とても小さな、囁き声で話し出した。
私は何とは無しに、前足の爪の伸び具合をチェックしながらその声に耳を傾ける。
「すんごい爆睡してる……」
「目の下、うっすらクマ出来てるし」
「ただでさえ大学院で忙しいのに、バイトもして、私の送迎までやってるからだよね」
「ありがとう。でも、ごめんね」
「颯太も、たかが『妹みたいな幼馴染』なのにこんなに気にかけて。こんなに忙しかったら、きっと彼女は放ったらかしだよ」
「……大丈夫かな。もし、別れちゃったら……」
「………」
そのあと続く沈黙に、私は爪チェックを中断して彼女を見上げた。
別れちゃったら、の後にはどんな言葉か続くのだろうか。
じっと待っていたら。
「なんて、私がこんなこと言うのも余計なお世話か」
小さく呟くと、「ね、きなこ」と同意を求めるように私の顔を見て口角を上げた。
そうすることで口許に笑みを浮かべようとしたみたいだけど、笑ってるように見えなかったのは、気のせいだろうか。
そのとき、外から夕焼けこやけのメロディが聞こえてきて、みいちゃんが壁の時計に視線を向けた。
「5時だ。そろそろ、起こした方がいいかな」
そう言うと立ちあがり、中腰で颯太くんの肩を優しく叩きながら、先ほどより大きな声で彼に声をかけた。
「颯太、そろそろ……」
彼女の言葉が不意に途切れた。
見ると、颯太くんの肩へ置かれた彼女の手には、彼が自分の手を重ねられている。
彼女の手首から、ほっそりとした指先まで全部、大きな手のひらにすっぽりと包まれていた。
そして、まだ眠気は取りきれないようだけれど、深い眠りで閉じていたはずの目は開かれていて、みいちゃんを見つめている。
一瞬、驚いて固まっていた彼女は、そんな颯太くんを寝ぼけてるんだと判断したらしく、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「起こしちゃった? ごめんね。でも、もう夕方だから、たぶんお父さんとお母さんも帰ってくる…」
言いながら手を引き抜こうとしたけれど、颯太くんが瞬時に、手のひらに力を込めて阻止する。
「颯太?どうしたの?なんで、手…」
戸惑いの色を見せる彼女に、颯太くんがようやく口を開いた。
「瑞季」
「なに?」
「『たかが』なんて言うな」
みいちゃんが顔を真っ赤にして狼狽えながら言った。
「聞いてたの?寝たフリなんてズルいよ、もう。
ね、それより手、離してってば」
今度こそ手を引き抜こうと、みいちゃんが身を捩るけれど、颯太くんの手はビクともせず、彼女が離れることも許さなかった。
颯太くんがみいちゃんの手を掴んだまま、空いているほうの肘を立てて上半身を軽く起こすと、彼女の手をグッと引っ張った。
「ちょっ…と、颯太!」
バランスを崩してしまった彼女は、颯太くんの胸に飛び込むような体勢になった。
その拍子に、颯太くんの体にかけられていたタオルケットが音もなく滑り落ちてきたので、
私は咄嗟にローテーブルの下に体を滑り込ませた。
颯太くんのニットについている柔軟剤の匂いと、
みいちゃんの揺れる髪から香るシャンプーの匂いが、
混じってフワリと、私の鼻をかすめる。
さらに縮まった、二人の距離。
みいちゃんは、ますます真っ赤に染まった頬を隠すように俯きながら、
それでも自由になるほうの手を突っ張り、傾いた体が颯太くんに
倒れこまないよう必死に踏ん張っている。
颯太くんが、強引な手つきとは裏腹な、静かな声音で言った。
「瑞季。『たかが』じゃない」
みいちゃんが、顔を上げる。
距離の近さに、目を大きく見開いていた。
「お前はそんな、どうでもいい存在なんかじゃない」
「え?」
ソファに触れている方の彼女の手が、かすかに震えている。
「瑞季は、俺の」
みいちゃんをじっと見つめながら、颯太くんが口を開いたそのとき。
玄関から、鍵を開けるガチャガチャという音が聞こえてきて、飛び退くように彼女はソファから体を離した。
「か、帰ってきたからっ」
そう言い残して、みいちゃんは逃げるようにリビングから出ていった。
パタパタと走るスリッパの音が遠ざかり、リビングには
颯太くんと私だけになった。
颯太くん、何を言うつもりだったの?
教えてよ。
もしかして今なら言いたいことが通じるかも、と思った私は、小さくにゃあ、と鳴いてみる。
けれど、彼はそれには反応しなかった。
代わりに、はあ、と息をひとつ吐いてから体を起こすと、無言でラグに落ちたタオルケットを手早く畳んで、リビングから足早に出ていった。