獅子王とあやめ姫
 「けっこん…えんだん…こんやく。」

 人気のないしーんとしている朝市の広場を酒をたっぷり積んだ荷車を押して進みながら、なんとなく呟いてみる。

朝は大勢の人で賑わう朝市だが、日が落ちてしまうと人っ子一人いない閑静なところであった。

 重い荷車の車輪の音に掻き消され、石畳に響くことなくその言葉たちは消えて行った。

 荷車とそれに揺られてゴトゴト音を立てる酒の音を聞きながら、イーリスは家路を急いでいた。
 
 風は止んだというのに最近頻発している辻斬のせいで、朝市が開かれる場所を通りすぎても人通りはいつもより少ない。

 ほんの少しだけイーリスは不安に思っていたが、それを掻き消そうと一生懸命さっき持ち込まれたとんでもない話のことを考えようとした。

 結婚。

 初めての色気づいた話に混乱はしているが、どこか冷静なところで判断している自分もいた。

 相手は最近どんどん豊かになってきたクレータ国のやり手の商人の次男。

 経済的に考えると、この話は損な話ではない。

 母はイーリスの気持ち次第だと言っていたそうだが、一人娘に初めてそんな話を持ち掛けられてどんな心境なのだろう。

 アイアスを始めとする宿屋の仲間たち、そして親友のテリはきっとように喜んでくれるはずだ。

 私は一度も恋なんてしたことないのに、今の彼で5人目のテリより早く嫁入りか……。

 秋の夜長の虫の声が、耳に虚しく響く。

 これまで何度も何度も幸せな惚気話を聞かされていたのだ。

 テリのような恋愛に憧れがないと言ったら嘘になる。

 軽くため息をついた時、細い裏路地から頭巾付きの外套をまとった男が一人出てきた。

こちらに向かって歩いてくる。  
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