残業しないで帰りたい!
富士山が見えるからって、別にどうってわけでもないけれど、くっきりと見える冬の白い富士山は案外荘厳で綺麗だ。
寒い澄んだ空気の中で見るから、心もキリリと引き締まってそう感じるのかも知れない。
富士山って千葉から見るより横浜から見る方がずっと大きく見える。
まあ、距離が近いから当たり前なんだけど。
昔住んでいた千葉からも、空気の澄み切った冬の朝には遠くに小さく富士山が見えることがあった。
子どもの頃、マンションのベランダから遠くに見える富士山を指さして「富士山見えるよ」って母親に教えると、なぜか母親は嬉しそうな顔をした。
「ホントだねえ」と微笑んだ母親と一緒に富士山を見たことを思い出す。
もしかしたら、富士山を見ると子どもの頃を思い出すのかもしれない。……あの微笑みも。
もちろん、7階で煙草を吸うようになったのは富士山を見るためなんかじゃない。
うっかり青山さんが通らないかなあ、なんて淡い期待もしていたし、俺って今、彼女と同じ階にいるだよね?なんて勝手にほくほくしたりしていたからなんだけど……。
俺ってホント、幼稚でバカだと思う。
結局、1年経っても彼女と非常階段でばったり会うなんてことは一度もなかったし、こんなバカな俺に彼女は一度も気がつかなかった。
当然目があうことも一度もなかったし……。
彼女は俺も含めて、全ての男に興味がなさそうだった。
他の男に興味を持たれるのは嫌だけど、俺には少しくらい気がついてくれないかなあ……。
でも、そんな願いも虚しく、俺は彼女と1年以上話す機会もなく、近づくこともできず、ずっと遠くから眺めることしかできなかった。