雲外に沈む 妖刀奇譚 第弐幕
ちらと考えた瞬間、お腹の奥から恐怖がこみ上げてきた。
未だに動く気配の見られない矢田を見ているとさらに恐ろしさが強くなる。
(あたし、とんでもないことをしでかしたんじゃ……)
力の抜けた肩から通学鞄がずり落ちる。
思葉は顔色を悪くして矢田に走り寄った。
なかなか重い賽銭箱を動かす。
「矢田さん、しっかりして」
「何やってんだばか!そいつから離れろ!」
助け起こそうと腕を伸ばしたそのとき、高いところから鋭い声が降ってきた。
聞き覚えのある声に腕を引っ込めて振り返り空を見上げる。
境内の木々と宵の空、その間に真四角の薄い膜のようなものが張られているのに気がついた。
思葉は確かに現実の次元に戻ってきた。
ただし戻ってきただけで、結界を破ったわけではなかったのだ。
瞬時に理解した直後、肩の辺りに衝撃が走った。
中途半端な姿勢でいた思葉は耐えられず尻餅をつき、地面に押し倒される。
矢田がその上にのしかかり、低く唸りながらぐっと顔を近づけてきた。
吐き出された生暖かい息は獣の臭いがする。
突然のことに驚いていると、矢田は歯を剥き出して思葉の制服の襟を乱暴に引っ張った。
そこからのぞく紺色の紐に、何のためらいもなく噛み付いてくる。
がつ、と矢田の歯が鎖骨に当たったが肌を噛まれはしなかった。
紐をくわえた矢田はギチギチと歯ぎしりして紐を食いちぎりにかかる。
その歯は人間のそれではなかった、獣のように鋭く尖った歯がずらりと並んでいた。
「やっ、やだ、離して!」
抵抗する暇もなく紐はちぎられてしまった。
再び熱を上げかけていた匂い袋が胸元から引き抜かれ、遠くへ投げ捨てられる。
魔除けの力が薄まったのを感じた。
獣の臭いが濃くなる。
肩にかかっていた矢田の両手に力がこもり、思葉は地面に固定された。
爪が制服越しに肌にくいこんでくる。
痛みに呻く思葉に、矢田がずいと顔を近づけた。
すぐ前に矢田の双眸がある。
だが、そこにあるはずの眼球は見当たらなかった。
墨で塗りつぶしたかのように真っ黒で、その奥に潜む何かと視線が合った。
目が離せない、呼吸ができない。
「――ツカマエタ」
昏い地の底から聞こえるようなおぞましい声が、思葉の意識を絡めとり連れ去った。