雲外に沈む 妖刀奇譚 第弐幕
たどり着いたのは360度どころか頭上も足元も黒一色の空間だった。
辺りを見回しても目印になるようなものはひとつもない、ただただ黒が横たわっているだけ。
まだ逃げ切れていないのだとすぐに悟った。
ここはおそらく、夢によく似た場所なのだろう。
だとすればここにあるのは思葉の意識だけ、自分の身体を目指して逃げるしかない。
まるで不思議の国のアリスのラストシーンみたいだ。
ハートの女王の怒りを買い、首をはねられそうになっていたアリスはこんな気持ちで逃げていたのだろうか。
なんて呑気なことが頭によぎった瞬間、背後の奥のほうで何かがざわりと蠢いた。
目を凝らしてみても何もいない。
しかし、そこに何かがいるということだけは感じ取れた。
矢田の身体を乗っ取り、 思葉を狙う何かがこちらに迫ってくる。
見えないけれど、何本もの触手に似た手が、思葉を捕まえようと手を伸ばしている気がした。
怖がっている場合ではない。
思葉は触手とは反対方向へと走り出した。
どこへ逃げればいいのかなんて分からない。
自分の帰るべき場所だけを考える。
『待ッテクレ……待ッテクレ、オレヲ裏切ルノカ……』
あの男のおぞましい声が背後から聞こえてくる。
するとどういわけか立ち止まりたい衝動に駆られそうになって、思葉は首を振って否定した。
(違う、あそこにいた女の人はあたしじゃない。
あたしは……あたしは……)
思葉はハッと息を飲み込んだ。
一緒に止まりかけた足は辛うじて動かし続けるが、足並みは格段に落ちていた。
首から背中を悪寒に撫で付けられる。
どうしても、自分の名前が思い出せなかった。
肉体がなく意識だけしかない今、名前が分からないのはとても危険な状態だ。
名前はその人をその人たらしめるもの。
それを無くしてしまえば、自分が何者であるかを見失ってしまう。
途方もなく広いこの常闇に消えてしまう。
(お願い……誰か、誰かあたしの名前を教えて。
あたしを、あたしの名前で呼んで……)