雲外に沈む 妖刀奇譚 第弐幕
「こっちだ!!」
急にはっきりとした男の声が響いた。
人間と同じようでいて、まったく異なる響き、けれどもそれは思葉にとって親しみのある声だ。
視界の先に一筋の小さな光が差すのが見え、そこに誰かが一人立っていた。
群青色の水干に霞色の小袴を纏った、月白色の長い髪をもつ長身の青年が、こちらへ来いと手招いている。
「玖皎!」
思葉はたまらず名前を叫んだ。
光の元にいる霧雨玖皎が、自分の存在をつなぐ何よりのものだと思えて一気に安心した。
伸ばされているあの手に掴まれば助かると、必死の思いで地をける。
「急げ、奴が来る!」
思わず後ろを見ると、不気味な触手は思葉に迫っていた。
思葉は頭を左右に振って玖皎を見つめ、手を伸ばした。
早くこの手を掴んで欲しい。
いや、それよりも、早く自分の名前を呼んで欲しい。
玖皎の名前は分かったが、やはり自分自身を示す名前はどうしても思い出せない。
「玖皎、玖皎……っ!」
そう伝えたいのになかなか言葉が出てこなくて、玖皎の名前を繰り返すしかなかった。
徐々に距離が縮まり、眩しい光の中から手を差し延べる玖皎に近づいてゆく。
あと少しで手が届くところまで来て、思葉はびたりと足を止めた。
伸ばしかけた腕を胸の前に引き寄せて、静かに玖皎を見る。
「何をしている、早く来い。
おれはここよりそちらへは行けないんだ」
玖皎が顔をしかめて、早く掴めと腕を示す。
だが思葉は動けなかった。
目の前に立っている玖皎から違和感をおぼえたのだ。
「早くしろ!」
「う、うん、だけど……ねえ、玖皎、今すぐあたしの名前を呼んでくれない?」
「そんなことをしている場合ではないだろう。
すぐそこまで追っ手が来ているんだぞ」
「わかっているよ、でも、どうしても呼んでほしいの。
お願い玖皎、あたしの名前を呼んで」
「名前なんかどうでもいいだろう、いいから早くこちらへ来い!」