逃亡記
だが、剣は結局抜かれなかった。ランスロット・ラーミアンの犬嫌いをゲルダが思い出したからである。

いまの彼には、野犬よりも狼よりも王国の特命を得た人殺し、元貴族で快楽殺人を己の趣味とも生業ともしているあの男の方がよほど怖い存在である。

眼をはっきりと開け獣の方を向くと、

なんだ、狼か、

安堵した彼はほほえみめいたものまで獣に向けた。

獣は彼に頭を寄せてきて、長い舌の先で彼の頬をなめた。

彼はますます笑い出した。腰にくくりつけた袋から干し肉を出すと、きらりと獣の眼が光ったように思えた。彼はそれを、少し向こうに放った。

獣は喜んでそれにとびつき、一度彼の方を振り返ると、木と木の間に器用にぴょこんと飛び込んで、たちまち姿を消した。

ゲルダはそのあともしばらく、愉快な心情の余韻に浸っていた。

ところで、この狼は暗い森の主ムームー・スケルトンの化身だったのである。

森の中に消えた狼は森のさらに奥深く、誰も立ち入ることのできない清らかな泉のそばで立ち止まり、化身して本来の姿をあらわして泉と話し始めた。

「泉の精ララよ、私の声が聞こえているかい?」

「もちろんよ、ムームー。世界中の狼をすべるあなたがここへ来て呼び掛けてくれればわたしはいつでも姿を現します。わたしはあなたのたった一人の親友で、あなたもわたしのたった一人のお友だち。だから私たちは永遠に仲良しでいましょうね。ね?」

「はっはっはっ。ララ、君はいつも変わらないなぁ。それはそうと、さっきみすぼらしい猿のような男がこの森に迷い込んだね。」

「ええ知ってるわ。やたらと大きな剣をぶら下げた、バカみたいな男。なににおびえてるのか、神経質に眼を血走らせて、いつでも挙動不審にキョロキョロして!!わたしはあの男、大っ嫌い!!森の深い淵のそばのつるつるすべる岩のところまで、エッチな美女の幻でも見せて誘い込んでやろうかしら?」

「君がそうするのなら私は止めない。けれど私はたまたま、あの男が何をそれほど恐れているのか知っているのだよ」

「ちいさなリスにも怯えるような奴よ。あいつの恐れには、理由なんて何もないわ。ああ、早く出ていって欲しい!この森から!」

「まあともかく聞きたまえ。あの男は罪を犯したのだよ。それも、躍進著しい、あの王国の支配者の逆鱗に触れる罪をね!」

「王国って…あのハムレット王子の国の?」

「そうハムレット王子の国さ。まさにそのハムレット王子の金玉をね、あのみすぼらしいゲルダって男はちょん切ってしまった。」

「まあ、まあ、美男の王子様。おかわいそうに」

「笑ってるな、ララ。でもあの男の味方にはなりたくもない。複雑な心境だろうね?」

「そんなことない。あの猿みたいなやつがこの森のどんな泉に落ちてもわたしは助けの手なんてさしのべませんからね!!!」

「あいつはおれに干し肉をくれたよ」

「ふっ。あなたなら、もっと上等な殺したてのほかほか湯気をたてる子牛の肉だっておもうさまありつけるでしょうに」

「いやそうでもないんだ。たしかにおれは狼の王さ。でも昨今、狼の個体数は減る一方でね。なにより、あの王国の有害生物駆除条例がひどい。一頭いくらなんて、あれでどれだけ私の子分どもが消されたと思ってるんだ!ハムレット王子も、以前はいいやつだったのに、父親が死んで国王がおじに代替わりしてから何だか性格が変わってしまったようだよ。以前は私も、彼の前で姿を現したことがあった。彼は狼を嫌わなかったな。それからあの、ゲルダも。狼を厄介払いしたがらない男たちが、私は理屈抜きで好きなんだよなぁ」

「森の主にして狼たちの王ムームー・スケルトンよ、あなたの弱点は一本気で楽天的すぎること。そんなんじゃいつかこの森も王国の手で切り払われてしまうわよ。そのときこそ今度は、わたしとあなたと、手に手をとってみすぼらしい姿で地上をさ迷う番なの。だからいまは人のことよりも自分の心配をなさい。それが絶滅危惧種の王たるものの務めではなくって?」

森の主ムームー・スケルトンは苦笑してそれには答えなかった。

年来の男友達をやりこめた泉は、さらさらと知らぬげに風に水面を揺らし、枝や葉の隙間から漏れる青い月光をささやかに乱反射させた。
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