逃亡記
ささやかな干し肉で森の主の歓心を買っていたことなど知る由もない哀れなゲルダは、かすかなもの音にも一々びっくりとして眼を覚ますのであった。
それでも、たまりにたまった全身の疲労が夢さえ届かないまっとうな深い眠りの国へと彼を誘っていった。
そして気がつくと、朝である。木漏れ日と小鳥たちの声が、森の澄んだ匂いのなか乱舞していた。
ゲルダはまだ生きていることに感謝した。
心の中でよく、
もう死にたい。
と呟く死にたい病の彼にあってこれは珍しいことであった。
からだの底から爽やかなエネルギーが湧いてきて、いまならラーミアンが襲ってきても撃退できるような気がした。
腹が減っていたのでわずかな干し肉の残りを大切に食べた。それから、森の中に食べられるキノコでも生えていないかとあたりを探索し始めた。
奴隷として二十年近くのキャリアを積んだ彼には、サバイバルの知識も少々ある。それらはみな、気のよい奴隷仲間から教わった知識で、幼少にまなんだ学問はすべて役にもたたぬと進んで頭の中から叩き出した。
あたらしいこと、サバイバルの知識を定着さすために、頭のなかからっぽにしとかなきゃなんない、
って。
その実、昔の自分といまの自分の環境の違いに、すじちがいの怒りを向けていただけなのかもしれない。
ゲルダは元々、よい家柄の出であった。
一人息子の彼には剣に学問にと英才教育が施され、中でも詩吟の才能は家庭教師が御墨付きをくださったほど。
が、彼の国は王国によっていともあっさりと滅ぼされ、その日から彼もまた奴隷の身分としてのあらたなる人生のスタートを切ることになったのだ。
特に、辺境の谷にはなんども行かされた。
その谷の中央部にはぶくぶく泡をたてる奇怪な大沼があり、沼の由来はそこに巨大な隕石が落ちたこととされていた。
谷の近くの森に、見たこともない極彩のキノコがたくさん生えており、任務でそこを通るたび、みな老齢の生え抜きの奴隷仲間たちはそれらを指さしては「食べれない、これも無理。あ、この色ならこいつはいけるなぁ」と食べられるキノコの見分けかたをゲルダに親切に教えてくれたのだ。
いまその老教師たちの教えに胸のうちで感謝の涙をたらしながら、ゲルダはとりわけ派手な色彩のキノコを手に取り、あんむっ、とむしゃぶりついた。
味がない。
腰袋から塩の包みをとりだして、少々つまみキノコに振りかけて再びいただく。
あんむ。むぐむぐ。なかなかいけるなぁ。彼は本格的にキノコを探し始めた。
「なにをやってるんだおまえは?」
呆れたような声がして振り向くと、きらびやかな服装の男が立っている。
いかにも気品のあるその姿は、ハムレット王子。傍らの、全身黒皮ずくめの男は…ラーミアン!!
ラーミアンはゲルダを、殺意のほかになんの感情をこもらない目で冷たくじっと睨んできた。
ゲルダの足が、意志に反してガクガクと震えだす。
ラーミアンが腰の剣を抜き、ひゅんひゅんしならせた。
蛇使いが蛇を操るごとく、細く鋭く物騒な剣を、ラーミアンは自在にしならせる。
とても勝ち目はないとゲルダは見た。
これまでに二度、ぶつかりあいそのたび危うく命をおとしかけた。
一度はまだ王国内で奴隷をしていたころ。もう一度は王国から逃げ出すとき。
そのどちらも、ハムレット王子が裏に手を回してラーミアンを止めさせていたのだが、ゲルダにはその事が知らされていなかった。
それでも、ゲルダは命の危機に、命乞いする相手を本能的に選びとったのだ。
「すいませんでしたぁ!!」
その場に土下座し、頭を地面にこすりつけるゲルダ。ラーミアンの頬に冷酷な笑みが浮かんだ。王子は戸惑い、呆れている。
やっと口を開いた王子の声は冷淡で、ゲルダは今度こそ本当に死を意識した。
「あのね、君。謝って済む問題でもないのよさ。おれのちんこ使い物にならなくしちゃったろ?おじにはまだ娘しかいなくて、てことはおれが次の王じゃん?王子に後継者できなかったらどうなるの?」
「はい、はい。おれ、あんときは酔っていました。王子が奴隷の身分のおれに親しくしてくれて、一緒に酒まで飲んでくれたから」
「祭りの日だったしね。無礼講だよ。あんときゃおれもあんたのことしこたまなぐったしね。甘く見てたよ、あんたのこと。意気地のない只の奴隷にすぎないって」
ひたすら額を地面にこすりつけるゲルダの動きが一瞬止まる。気づかずに王子は喋り続けようとした。
それを制するかのごとく、ラーミアンが一歩前に出る。ふいに話しやんだ王子をいぶかって顔を上げようとしたゲルダの耳に、背後からささやき声が聞こえてきた。
「しずかに!私は君だけに聞こえる程度の声で喋っている。君はじっとなにも聞こえてない振りをしていろ!うなずいてもいけないよ。」
ゲルダはその場で石と化し、じっと動かなかった。
「そうだ、それでいい。あと十秒後に、君の首筋に剣を突き立てるためにあの男が飛び込んでくる。君の友だちも彼を止めることはできない。お友だちにそのつもりがあればの話だが。とにかく、あの男の瞬発力は尋常じゃないからね。だから君は命が助かりたいんなら、一、二の三で死に物狂いの力をふるって背面飛びをしなさい。ほら来たぞ!一、二、三!!」
ゲルダは突然両手を振り上げ、正座した足を跳ね上げて背後に転がった。彼の首筋にひたすら狙いを定めていたラーミアンの剣が、空を切り地面にささる。
背中から地面に延びたゲルダ。その目に、森の奥から呼び掛ける狼の姿が映った。
「こっちだ!」
狼が口を開かずに喋った。向き直り四つん這いのまま手足を動かして、彼はかさかさと狼の方に向かった。その途端、ごうと森の中を強い風が吹き抜ける。
枝葉が動き、ちょうど狼とゲルダの姿を見えなくさせた。
風がやんでも、ラーミアンと王子はしばらくそこに立ち尽くしていた。
森の奥に眼を凝らしてももう、逃亡奴隷の姿は見えぬ。彼らの敵はどうやら魔道の力を持つ存在を味方につけたらしい。
王子はかたわらの黒皮装束の男を見やった。もて余すとまで感じていたこの男の狂気が、いまではなんだかみすぼらしいものに見えてきていたのである。
それでも、たまりにたまった全身の疲労が夢さえ届かないまっとうな深い眠りの国へと彼を誘っていった。
そして気がつくと、朝である。木漏れ日と小鳥たちの声が、森の澄んだ匂いのなか乱舞していた。
ゲルダはまだ生きていることに感謝した。
心の中でよく、
もう死にたい。
と呟く死にたい病の彼にあってこれは珍しいことであった。
からだの底から爽やかなエネルギーが湧いてきて、いまならラーミアンが襲ってきても撃退できるような気がした。
腹が減っていたのでわずかな干し肉の残りを大切に食べた。それから、森の中に食べられるキノコでも生えていないかとあたりを探索し始めた。
奴隷として二十年近くのキャリアを積んだ彼には、サバイバルの知識も少々ある。それらはみな、気のよい奴隷仲間から教わった知識で、幼少にまなんだ学問はすべて役にもたたぬと進んで頭の中から叩き出した。
あたらしいこと、サバイバルの知識を定着さすために、頭のなかからっぽにしとかなきゃなんない、
って。
その実、昔の自分といまの自分の環境の違いに、すじちがいの怒りを向けていただけなのかもしれない。
ゲルダは元々、よい家柄の出であった。
一人息子の彼には剣に学問にと英才教育が施され、中でも詩吟の才能は家庭教師が御墨付きをくださったほど。
が、彼の国は王国によっていともあっさりと滅ぼされ、その日から彼もまた奴隷の身分としてのあらたなる人生のスタートを切ることになったのだ。
特に、辺境の谷にはなんども行かされた。
その谷の中央部にはぶくぶく泡をたてる奇怪な大沼があり、沼の由来はそこに巨大な隕石が落ちたこととされていた。
谷の近くの森に、見たこともない極彩のキノコがたくさん生えており、任務でそこを通るたび、みな老齢の生え抜きの奴隷仲間たちはそれらを指さしては「食べれない、これも無理。あ、この色ならこいつはいけるなぁ」と食べられるキノコの見分けかたをゲルダに親切に教えてくれたのだ。
いまその老教師たちの教えに胸のうちで感謝の涙をたらしながら、ゲルダはとりわけ派手な色彩のキノコを手に取り、あんむっ、とむしゃぶりついた。
味がない。
腰袋から塩の包みをとりだして、少々つまみキノコに振りかけて再びいただく。
あんむ。むぐむぐ。なかなかいけるなぁ。彼は本格的にキノコを探し始めた。
「なにをやってるんだおまえは?」
呆れたような声がして振り向くと、きらびやかな服装の男が立っている。
いかにも気品のあるその姿は、ハムレット王子。傍らの、全身黒皮ずくめの男は…ラーミアン!!
ラーミアンはゲルダを、殺意のほかになんの感情をこもらない目で冷たくじっと睨んできた。
ゲルダの足が、意志に反してガクガクと震えだす。
ラーミアンが腰の剣を抜き、ひゅんひゅんしならせた。
蛇使いが蛇を操るごとく、細く鋭く物騒な剣を、ラーミアンは自在にしならせる。
とても勝ち目はないとゲルダは見た。
これまでに二度、ぶつかりあいそのたび危うく命をおとしかけた。
一度はまだ王国内で奴隷をしていたころ。もう一度は王国から逃げ出すとき。
そのどちらも、ハムレット王子が裏に手を回してラーミアンを止めさせていたのだが、ゲルダにはその事が知らされていなかった。
それでも、ゲルダは命の危機に、命乞いする相手を本能的に選びとったのだ。
「すいませんでしたぁ!!」
その場に土下座し、頭を地面にこすりつけるゲルダ。ラーミアンの頬に冷酷な笑みが浮かんだ。王子は戸惑い、呆れている。
やっと口を開いた王子の声は冷淡で、ゲルダは今度こそ本当に死を意識した。
「あのね、君。謝って済む問題でもないのよさ。おれのちんこ使い物にならなくしちゃったろ?おじにはまだ娘しかいなくて、てことはおれが次の王じゃん?王子に後継者できなかったらどうなるの?」
「はい、はい。おれ、あんときは酔っていました。王子が奴隷の身分のおれに親しくしてくれて、一緒に酒まで飲んでくれたから」
「祭りの日だったしね。無礼講だよ。あんときゃおれもあんたのことしこたまなぐったしね。甘く見てたよ、あんたのこと。意気地のない只の奴隷にすぎないって」
ひたすら額を地面にこすりつけるゲルダの動きが一瞬止まる。気づかずに王子は喋り続けようとした。
それを制するかのごとく、ラーミアンが一歩前に出る。ふいに話しやんだ王子をいぶかって顔を上げようとしたゲルダの耳に、背後からささやき声が聞こえてきた。
「しずかに!私は君だけに聞こえる程度の声で喋っている。君はじっとなにも聞こえてない振りをしていろ!うなずいてもいけないよ。」
ゲルダはその場で石と化し、じっと動かなかった。
「そうだ、それでいい。あと十秒後に、君の首筋に剣を突き立てるためにあの男が飛び込んでくる。君の友だちも彼を止めることはできない。お友だちにそのつもりがあればの話だが。とにかく、あの男の瞬発力は尋常じゃないからね。だから君は命が助かりたいんなら、一、二の三で死に物狂いの力をふるって背面飛びをしなさい。ほら来たぞ!一、二、三!!」
ゲルダは突然両手を振り上げ、正座した足を跳ね上げて背後に転がった。彼の首筋にひたすら狙いを定めていたラーミアンの剣が、空を切り地面にささる。
背中から地面に延びたゲルダ。その目に、森の奥から呼び掛ける狼の姿が映った。
「こっちだ!」
狼が口を開かずに喋った。向き直り四つん這いのまま手足を動かして、彼はかさかさと狼の方に向かった。その途端、ごうと森の中を強い風が吹き抜ける。
枝葉が動き、ちょうど狼とゲルダの姿を見えなくさせた。
風がやんでも、ラーミアンと王子はしばらくそこに立ち尽くしていた。
森の奥に眼を凝らしてももう、逃亡奴隷の姿は見えぬ。彼らの敵はどうやら魔道の力を持つ存在を味方につけたらしい。
王子はかたわらの黒皮装束の男を見やった。もて余すとまで感じていたこの男の狂気が、いまではなんだかみすぼらしいものに見えてきていたのである。