誘惑はキスから始まる
疑問に思いながらも、緊張しているせいか深く考える余裕がなかった。
「いえ、本日、10時に面接の約束をしていただいた溝口です」
緊張で口の中が乾いていたせいで、ガサガサの声に恥ずかしくなる。
でも、女性はバカにしたように笑う事もなく優しく微笑みかけてくれた。
「はい…伺っています。では、こちらでお待ちください」
案内された一室は、周りを磨りガラスでおおわれた会議室だった。
入り口から近い手前の席に腰を下ろし、カバンから履歴書を出してテーブルの上に置いて待っていると
コンコン
ドアを叩く音で立ち上がりドアに体を向けた。
ガチャとドアが開くとダークグレーの細身のスーツが視界に入る。
その場で立ち止まる男性の顔に視線を移すと、昨日の男性だと気づく。
お互い目を見開き驚いていると、先ほど案内をしてくれた女性が飲み物を持って現れた。
「社長、そんなとこに立ち止まってどうされたんですか?」
社長?
声をかけた女性とその男性を交互に見つめる私に気づいた男性は、女性から飲み物の乗ったトレーを受け取り、女性に目配せをしてからドアを閉めてテーブルを挟んで目の前に立つと、『どーぞ』と言って座るように手で促す。
「失礼します」
と言ってから椅子に座ると、いい香りがするコーヒーを男性はそれぞれの目の前にそっと置いて席に座った。
昨日も見た目は素敵な男性だと思ったが、スーツをビシッと着こなしシルバーフレームの眼鏡が端正な顔に似合っていて、無造作に後ろへと流した黒髪が昨日とは違う印象を与えている。
「昨日は、みっともない姿で失礼しました」
私は、思わず昨日の非礼を詫びていた。
男は、クスッと笑い微笑むと
「いえ…こちらこそ朝の忙しい時間に伺ってしまい申し訳ありませんでした」
はぁ〜、掃除をしていたと思っているのよね。
でも、あえて否定はしない。
首を左右に振り
「いいえ」
と答える。
「今日は、面接にお越し頂いたということでしたね」
「はい」
「………」
しばらく沈黙する男に、隣の住人だと雇いにくいのかもと思うとテンションが落ちていく。
「溝口さん…」
「はい…」
「履歴書、拝見します」
テーブルの上に置いておいた封筒を取り男性に渡した。
男は、封筒の中から履歴書を出して一瞬目を瞬く。
「溝口さん…扶養者の欄ですが無しとなっていますが独身でよろしいですか?」