夜を駆ける
「何を言っているの」
少し走っただけなのに、息があがっている。
『奴に近づくな』
黒い獣が低く喉を鳴らしている。地鳴りのような低い音は恐ろしいけれど、怯んでなんていられない。
「なんであんたに命令されなくちゃいけないのよ」
『命令じゃない。忠告だ』
「そこに…スンホンがいるのに…」
追えば捕まるのか…今まで追いかけて捕まらないものを、あとどれだけ追うつもりなのか。
「お姉ちゃん、早くおいでよ」
焦れて待っているスンホンから声がかかる。
追わなければ、また見失う。これ以上、ハンや村の皆に迷惑がかからないように、ここでスンホンを捕まえたかった。
前に進もうとすると、獣が道に立ち塞がり低く唸りをあげた。
『ここに居ろ』
獣はスンホンをにらみながら、じりじり進む。威嚇しながらも、回りに注意を払っている。
「なんでそばに来てくれないの。こんな怖い獣なんかよこさないで」
ざらついたスンホンの声がする。胸を砥石で削られるように痛い。
なんで良く知っているスンホンよりも、会ったばかりの獣にしたがわなくちゃいけないの。
獣に怯えるスンホンに駆け寄ろうとして、ぷつりと体が何かを突き抜けた。
ざわざわと肌に鳥肌が立っていく。
一人で立っているのが頼りなく右手で左の腕を抱く。
「やっと出てきたね、お姉ちゃん」
にたりとスンホンの唇が上向く。その笑いはなんだかひどく冷酷でひやりとした。
今まで助けを求めていたスンホンから光が失せてしまい、なんだか薄汚れて見える。
まるで何かのカラクリが動いたようだ。
『………馬鹿者が忠告しただろう』
黒い獣があたりをうかがいながら吐き捨てた。
夜の闇の底から金色の目がこちらを見つめている。何かいる、あたしとスンホンと黒い獣以外にも。