夜を駆ける
みんな困っていた。虎もスンホンもあたしも。それだが三者に共通していて、あたし達がそこに集まるきっかけになった。
ゆっくり言葉を探しながら、あたしは考えていた。どんな言葉だって本当の心の底までをあらわせないんじゃないかって。
知ったふうに虎やスンホンの気持ちをあたしが言っていいのか。
でも解って欲しい
理解して欲しい…
『あたしはスンホンを恨んでなんかいないわ。あたしが同じ立場でも同じことしてた。家族のために必死になってるスンホンは偉いと思った』
ちらりと父をうかがう。目が合うと片眉だけあげてみせる。止めた所で無駄だと解ってくれている。
あたしはスンホンの父親に言葉の楔を打ち込んでやりたかった。忘れられないくらい深くえぐるように。
『人喰い虎はあたしに言ったわ。オマエ オレヨリ ツヨイカ って。虎は自分より強い人間がいたら、楽になれるとわかっていたのよ。人間を襲うことしかできなくなったって言ってたわ。自分の意思で人間を殺したけれど、殺すのを止めることはできなかったの。
だから仕方ないけど、あたしが止めなくちゃいけくなったの
虎がそれを望んだから
あたしはスンホンを自由にしてやりたくって、人喰い虎を倒すことにしたの
でも、かよわいあたしが一人で虎なんて倒せると思う』
あちこちで失笑が洩れる。父も真面目な顔を引きつらせて笑いをこらえているものの、目が弓なりの弧を描く。
あたしが、どれだけ お転婆だとしても野獣が相手なのに!生きてるほうが不思議なのに!
たとえ たとえあの腹黒い獣があたしの命を守ったと言ったって、首の皮一枚つながってたら回りじゅう納得させてしまう理屈をこねるだろう。
『虎があたしで いいって協力してくれたから、あたしは虎を倒せた。虎をどこに埋めたか教えましょうか』
しっかりスンホンの父親を見た。
「そんで証拠になるとでも言うんか。ただの盛り土かもしれん」
『いいのよ。調べたって。
ただ……墓を暴いたりしたら、けがれるわ。狂気に落ちて、人を殺したくなるかもね』
だから目印なんてつけなかった。見つけられたら困るから。
「………呪われる」
ぼそりとスンホンの父親がこぼす。
そういう見方もあるかもしれない。実際にあたしが虎になっているから、信憑性があるだろう。
父を見た。口の端をあげた父は、もういいだろう、と目で言っていた。
かたんと父の棒が床をつく。
「皆さんには大変お世話になりましたが、もうこちらでお世話になる訳にいかなくなりました」
父があたしを見る。あたしも父を見て、頷くしかできない。
「私達…皆さんには私と虎、ですがこれは娘です。私とシュウメイは、この村を出て他に住む場所を探すことにします。長い間お世話になりました。本来ならお世話になった方々にお礼を言ってまわりたいのですが、なにぶん娘がこうですから…」
くしゃりとした笑いを、あたしや 回りにむける。誰もが息をつめて父の言葉を聞いていた。
「お別れの言葉は皆さんからお伝えしてください。私とシュウメイは元気にやっていると」
父は大きな手であたしの頭を擦り、皆に向けて深々と頭を下げた。つられてあたしも頭を下げる。
胸には、ぽっかりとお別れという言葉が焼きついた。
誰にもお別れなんて出来ない。最後に言葉を交わすことも。あたしの この姿は人を怯えさせるだけだろう。
ぽろりと涙がこぼれる。体の大きい虎の涙は、びっくりするくらい大きい。
虎だって泣くんだ。
そう人喰い虎だって、あたしにだって心はある。虎であって虎でないもの。