夜を駆ける

虎の毛皮はすべすべして、あたしの涙をつるつると落としていく。

まるで、なにも無かったかのように、こぼれた涙は消えていく。



父に促され、後にしたがいながら、あたしはひとつ言い残したことがあったのを思い出した。

『あたし、おじさんの彫り物好きだよ。よく見てたんだ』

弾かれたように、スンホンの父親が顔をあげる。

魔よけであったり、神聖な場所にある彫り物には、華やかなものが多い。

神獣を象ったものや、花、獣、図形を切り出した物など精緻なもので埋め尽くされている。

おじさんは、こんなに呑んだくれるまでは、腕のいい職人だった。今もスンホンの家の柱には魔よけの模様が刻まれている。

その模様があたしは好きだった。良いとか悪い、上手く出来ているとか物に対する評価はいろいろあると思う。だけど、くっきりと引かれた線が潔く伸びていて、何の気なしに目に入ったとしても見入ってしまう。
何か評価するときに、好きだという感情を抜きにして評価できる人はいないだろう。誰だって好みがある。心の奥底の感情を揺さぶる何かが『好き』だという気持ちになる。

「へっ言われるまでもねぇ。おらぁ職人だ」

鼻水をすすりあげるついでに、ぐすりと目をこする。もしかしたら、目にも水があったのかもしれない。





軋む戸を開けて外に出る。
あたしはこの村しか知らない。この村で生まれて、今までこの村で生きてきた。明日も明後日も、おとといみたいに何も変わらない明日が続くと思っていた。

この村で結婚して、子供を育て一生この村しか知らずに生きていくはずだった。


わたしが育った村を目に焼き付けていく。いつでも冷たい水のある井戸や、季節の野菜のある畑、村の中心に向かえば、スンホンやハン、ソウニャの家がある。
季節ごとに果実をつける木に、みんなで登った。

あたしが居なくなっても、あの木はこれからも実を結び、そのやわらかで みずみずしい果実をみんなに分け与えるんだろう。




「…シュウメイ」

聞き覚えのある声に、はっとして顔を向けると、道のはたにソウニャが立っていた。

「シュウメイでしょう…ねえ、そうなんでしょう」

泣き腫らした目が、しっかりとあたしに向けられている。何か言いたげな唇はふるえていて、言葉になりそこなった吐息だけが漏れてくる。

……少し息が早い。

「…ごめんねぇ…シュウメイ解ってあげられなくて。あたしシュウメイが虎に食べられちゃったかと思って大声出して…」

見開かれた瞳は、ぎりぎりまでうるうると涙を盛り上げて何か声をかけたり、触れたりしたら、こぼれ落ちてしまいそうだった。

あたしは頭を横に振った。
「あたしがっ…大声出したりしなかったら…シュウメイは……」

ぐっとソウニャの肩に力がこもる。


『それは違う。あたし達が出ていくのは、その時が来たからにすぎないよ。あたしがこんな姿になったのも、あたしが選んだから。ソウニャが気に病むことじゃないんだよ』

「でも…」

『でもじゃないの』

あたしの言葉に、ソウニャがふっと笑った。子供の頃から何度も繰り返してきたやり取りだから。

「シュウメイだね」

『そうよ。あたしだもの』


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