夜を駆ける
エピローグ
開け放した窓から見上げる月は、白々とした光を投げかけて不思議に明るく、木々や家に陰を作っている。
その光でよく見知っているはずの世界が、まるで知らない場所のように見えて心細いという思いがわく。
「おかあさん」
月の光の明るい窓辺から、子供の声に気づいて顔を向けると、小さな娘が私をじいっと見つめていた。
「もう ねるじかん ですよ」
「そうねえ。寝るのはあなたでしょうユエ」
ふっくらした頬に触ると、くすくすと笑いが起きる。暖かくて柔らかな頬は、恐ろしいことなど何ひとつ知らないで、ぺこりとえくぼを刻む。
伸ばしたその手を、ユエの肩にかけて連れだって寝台へとむかった。
「おかあさん、とらの おはなしをして」
布団に入るなり、ぱっちりと目を見開いて話をせがんでくる。添い寝しながら、髪をなでると、柔らかくてさらさらと流れ落ちる。
「どの虎」
「おともだちの のった とら」
村の外れに、まだ新しい小さなお堂があり、そこに実物よりも一回り小さな木彫りの像があった。
風に髪をなびかせた子供を背中に乗せて、駆けている虎の姿。
「あの虎は木彫りのおじいさんが、子供が人喰い虎に殺された年に作ったのよ」
「あの とらこわくないよ。わらっているもの。のっているこも たのしそう」
「あの虎はいい虎なの。悪い虎から子供を助けてくれたのよ」
「しんじゃったのに?」
「そうよ。悪い虎は死んでも使い童子として働かせるの」
「……こわいねぇ」
すりすりと剥き出しの腕をさする。その小さな仕種が愛らしくて、背中をさすりながら安心させるように、時折とんとんと叩く。
「あの虎は、前は人間だったのよ。人喰い虎を倒した呪いで虎になったのよ」
「かっこいいねぇ、つよいねぇ」
きらきらとした目で見上げてくる。
私の知っている彼女は、強がりで、泣き虫で、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
素直な娘の反応に口許が綻ぶ。
「あの虎は、今も私達を見守ってくれているの」
お堂に安置された像には、村人がお花や果物、菓子などを供えている。
家に何か喜ばしい出来事があった時や、家族を守ってもらいたい時に、村の人は虎の像まで来て、その像を撫でていく。
人の思いが重なり、触られている像はつやつやとした光沢を持っていく。
お堂を掃除しながら、そのことだけは疑わない。みな、虎になった少女が好きだったのだ。
時折、森からやって来る足跡がある。
お堂の回りをゆっくりと一周して、中に入って行く。あちこちから像を見て、足元の埃を払っていく。供えられた供物を眺めて、供えた人物の名前を見ていく。私も子供の誕生祝いに、両親と子供の名前を付けた山葡萄を供えた。
足跡を箒で掃きながら、きっと彼女は知っていると確信する。
産後の私のために、戸口にはホンサムが置かれていた。乾いた地面に、うっすらと足跡が残っていたから。
「ユエ、もし森で困ったことがあったら、大きな声で叫びなさい。きっと助けがやって来るわ」
私は幼い娘に、大切な名前を教えた。口にすることはない、宝物のように胸の中にある名前を。
愛おしむように唇に乗せる。
「あなたが、本当に困っていたなら、きっと助けてくれるわ。冗談やふざけて口にすることは、いけないわ。私も一度しか教えない。わかるわね」
私の眼差しに射抜かれたのか、娘は口をもぐもぐさせて、声に出さずに名前を繰り返していた。
「ひみつのことばだね」