掌ほどの想い出
「すみません。突然あんな事をして、驚かれたでしょ」
 彼の口調は想像通り、淡々としていた。でもその口元は、優しい弧を描いている。そしてたぶん、私はバカみたいに真っ赤になっていたに違いない。激しく頭を振りながら、とんでもない、と言い返すので精一杯だった。
「痴漢と勘違いされても、おかしくない状況でしたよね」
 駅の喧噪の中。変わらず落ち着きを払う彼に対して、一人あたふたする私とでは、満足な会話にもならなかった。
 けれど。それでも私は、万に一つでも起こるかもしれない、長く抱き続けた可能性を期待せずにはいられなかった。
「それでも。どうしても、誰かに教えたかったんです」
 彼の喉仏が、言葉を発するたびに上下する。そんな事にまで、私はときめいていた。
 だから、次に発せられた彼の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「今日で、最後なものですから」
 ぼんやりと呆ける私に、彼は優しい笑みを湛えたままで、更に残酷な事を言った。
「今晩から新居に移るので、もう、この路線には乗らないんです。だから」
 私は、間抜けな鯉みたいに、ただ口をパクパクしていたように思う。
「今日は幸い、昨夜の雨で空気中のエアロゾルが少ない分、きれいに見えたけれど、季節や空気のコンディションによっては、正しく赤く見えたり、たまに、セピア色に見える事もあるんです。だからきっと、毎日の通勤が楽しくなると思います」
 喉の奥が、鷲掴みにされたような痛みでいっぱいになる。なるべく、震えないように私は精一杯、声を出した。
「どうして、私に?」
 でもその声は、構内アナウンスにかき消されていた。
 彼はもちろん、私の問いかけに返事をすることも無く、でも、口元には優しい弧を描いたままで軽く会釈をすると、あっさりと踵を返した。
 追い掛ける事も出来たのかもしれない。でも、私には出来なかった。左利きの彼の薬指に光るそれが、私を拒んでいたから。
 結局、一年近くにも及ぶ私の片想いは、彼の名前すら知る事もなく、そのまま幕を引いた。
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