ウ・テ・ル・ス
「警察とか自己破産なんて考えるなよ。したところで、俺たちは法の外に居る人間だ。何処までも追いまわして取り立てるからな。」
 真奈美と男は黙って睨みあった。最初は自分が押し気味だと自負していた男だったが、真奈美の瞳の奥に恐れが見当たらない。逆に彼女の瞳の奥に鋼の強さを読みとると、徐々に押されていった。やがて視線を外して言った。
「いずれにしろ…明後日の返済日がどうなるか、楽しみにしていますよ。」
 真奈美は静かに立ち上がると、挨拶もせず事務所を後にした。

 後日考えても事務所から家までどのように帰ったのか記憶が無い。こういう状況に陥いると、人間の思考範囲は極端に狭まるようだ。歩きながら真奈美はやがて、先の治療費だとか、ミナミの学費だとか、月末の家賃とかの問題意識が消えて、とにかく目の前に迫った返済日のことだけしか考えていない自分に気がついた。それはある意味膨大な苦難に押しつぶされないための自己防衛本能なのかもしれない。しかしそれは同時に、明後日以降の自分が想像できないことを意味している。
 気がつくと自分の家の前に来ていた。ミナミと顔を合わせる前に気分転換が必要だと考えた真奈美は、大きなため息をひとつつくと、家には入らず近くの公園のベンチに腰掛けた。しかし、ただ座っているとまた借金の返済ことを考えてしまう。そうだ、おとぎ話のように幸せな自分をイメージしてみよう。そう言えば、平安で幸せな自分なんて久しく忘れていた。現実ではなくても、それで少しは気分が晴れるかもしれない。
 真奈美は眼を閉じた。やがて綺麗なキッチンで、かわいいエプロンをした自分が朝食の準備している姿が見えてきた。しかしよく見ると、日本式のキッチンじゃない。周りを見まわすと家の作りも変だった。朝だと言うのに家に差し込む光は力強く、明け放れた窓からそよぐ風には常緑広葉樹の香りを含んでいた。部屋の奥から赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。キッチンの自分は、微笑みながらミルクの準備をしている。赤ちゃんが泣いているのに、自分があまりにも平然としているので心配になった。
『ミルクの準備できたわよ。』
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