ウ・テ・ル・ス
 秋良は会社を出ても、すぐには自宅に帰らず、首都高にのり環状線を一周した。深夜の首都高は空いていて、彼は望むスピードを出すことができたが、それでもこころの隙間を埋めるにはいたらない。
『厄介なものを抱えてしまったな…。』
 秋良はそう呟きながら、ドライブを諦めて車を自宅へ向けた。
 秋良がカードキーを差し込み、誰も居ない自分の部屋のドアを開けた。まずオーディオに電源を入れいつもより大きめの音量で音楽をかける。着替えを済ませると、部屋の明かりを消して、リビングで夜景を見ながらバーボンを飲んだ。今日、大鏡の内側で久しぶりに顔を見たせいであろうか、夜景を眺めながらも、網膜には真奈美の顔が像を結ぶ。妊娠すると顔も変化するのか、今日の真奈美は、自分が知っている真奈美より幾分か柔らかな顔つきになったような気がする。秋良は彼女の顔を頭から振り払うように、またバーボンを飲んだ。
 酔いも回ってきて、ようやく寝付けそうな気分になって来た。電気も点けず、着ていた部屋着を脱ぎ捨てると、アンダーウエアだけでベッドにもぐりこむ。ベッドの中が妙に温かく感じた。酔いのせい?しかし、いくら酔っているとはいえ、この温かさは変だ。後手にベッドを探ると柔らかいモノが手に触れた。秋良が慌てて寝室の照明を点けると、驚いたことに自分のベッドに真奈美が寝ていたのだ。真奈美は、照明の明るさに目をしばたくと、秋良を認めて目をこすりながら言った。
「今頃帰ってきやがって…。しかも酒臭いし…。いい加減にしてよ、折角良い気持ちで寝てるのに…。」
 真奈美はベッドで寝がえりをうつと、秋良に背中を向けて、また寝息を立て始めた。秋良は唖然として、しばらくその後ろ姿を見つめていた。

 ふたりの生活が再開された。部屋の中で鈴の音が忙しく鳴り響く毎日が戻ってきたのだ。妊娠に関して真奈美は、一切非難めいた言葉を秋良に言わなかった。何事もなかったように淡々と家事をこなし、楽しげに秋良に話しかける。秋良はそんな真奈美を不気味に感じながらも、部屋から追い出すようなことはしなかった。さすがに寝室は分けたが、それ以外はなすがままの彼女を受入れ、ただ黙って見守り続けた。当然のことではあるが、この不思議な暮らしの中でも、真奈美の身体の中の新しい命は着実に育っていく。
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