凪の海
「ホンマかいな…。みんな手あげても手紙は4通しかあらへんで。ほな、じゃいけんせい。」
 テーブルの上に拳を出しあう部員達。
「石津、なんじゃ、お前はじゃいけんせいへんのか?」
 泰滋は、席に座ったまま動こうとしない。騒然とする部員達を尻目に、クールにカメラを磨いていたのだ。
「民主という字も書けないような子どもに、なにを書け言うんですか。遠慮しておきますわ。」
 泰滋は磨いているカメラから目も上げずにそう答えた。

「ただいま。」
 編集会議を終えた泰滋が、京造りの狭い引き戸を開けて帰ってきた。狭い入口の割には奥が深く広いのが京都の家屋の特徴だ。
「おかえりやす。もうすぐな、ご飯できるさかいに、まっててな。」
 母がいつもながらのゆっくりとした喋り様で泰滋を迎えた。
「おかあはん、急がんとええで。僕も手伝うから…。」
 泰滋はそう答えてふと玄関先を見ると、黒光りする革靴があることに気づいた。
「なんや、おとうはん 帰ってはんのんか?」
 母が肩をすぼめてウインクをした。母ながら時々その時代にそぐわない(さしずめAKB48的とも言うべきか…)とてつもなく可愛らしい仕草をするので、泰滋も戸惑う時がある。
「泰滋、帰ったんか?ここ来て一緒に呑まんか?」
 父 泰蔵は早々と会社から退けて、借家の奥にある小さな庭の縁側で晩酌を始めている。キセルを咥えた父の前の盆には、いつもながらの徳利、おちょこ、そして冷奴がある。父は京都の清水で作った豆腐が大好物で、その白さに誇りさえ感じているようだった。
「おとうはん、えらい早いな。」
 泰滋は、父の傍らに座りながら声をかけた。父が底にわずかに残った日本酒を庭に払って、お猪口を泰滋に差し出す。
「このあと大学の書きものがあるんで、今は遠慮しておきます。」
「なんや、愛想ないやっちゃなぁ。」
 父はそう愚痴りながら、自分で自分の為に日本酒を注いだ。
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