凪の海
 氏が最後に弾いた曲は、『ラ・ヴィオレテラ(スミレ売りの娘)』スペインなら誰でも知っている国民的な懐かしのポピュラーメロディであった。欧米にも人気のあった曲だから汀怜奈もその曲を耳にしたことがある。ロドリーゴ氏が『遠くから来てくれてありがとう。どうかおくつろぎください。』と汀怜奈の訪問を歓迎してくれている気持ちが込められているようで、彼女のハートも熱くなった。
 ロドリーゴ氏がピアノの椅子に腰かけたまま汀怜奈に向き直った。失明されている事はわかっていても、その大きなサングラス越しに自分のすべてが見透かされているのではないかと、汀怜奈は緊張する。会話は娘さんを通しておこなわれた。
「父はミス・ムラセの演奏を聞きたいと楽しみにしておりました。よろしければ1曲お願いできますか?」
「もちろんです。」
 汀怜奈はギターケースから愛器を取りだす。曲はあらかじめ決めていて、この日の為に練習を重ねてきていた。ロドリーゴ氏が作曲した『古風なティエント』である。曲名を告げると、氏は点字で表した楽譜を持ってこさせ、楽譜を指で触れながら汀怜奈の演奏を待った。
 実のところ、この時汀怜奈はどういう演奏をしたのかを憶えていない。チューニングを終え、指を弦に乗せた瞬間に記憶が飛び、そして気づいた時には最後の音をつま弾いていた。
「ドゥエンデ…」
 ロドリーゴ氏は、かすれる声でそう呟いた。
 『ドゥエンデ』とは、もともと、スペイン語のdueno de casaというフレーズが省略されたもので、直訳すれば『家の主』である。スペイン王立言語アカデミーの辞書によれば、『民家に住み、家中を荒らしたり大音響をとどろかせたりすると言われている想像上の精霊』とあり、日本で言えばさしずめ『座敷童』であろう。
 しかしこの言葉にはもうひとつ重要な意味がある。もっぱらスペイン南部アンダルシア地方で用いられる用法であるが、そこでは、『ドゥエンデ』といえば『神秘的でいわく言いがたい魅力』を指す。ここでいう魅力とは、芸能の魅力のことで、厳密に言えば、歌や踊りが人を惹きつける魔力を指している。
 ロドリーゴ氏が娘に何かつぶやいた。
「父はセニョリータ・ムラセの演奏がとても魅力的だと言っています。驚異的と言っていいほど正確で安定した演奏技術に加え、そこから奏でられる美しい音は、鳥肌が立つようだと…。」
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