凪の海
 国営ラジオに答えたある女性は、「ここに座っていたら、すべてのものが動き始めた。絵は壁から落ち、テレビは倒れ、揺れは長い間続いた。窓から外を見ると、たくさんの人が逃げ出し、救急車や警察もいた。」と報告している。しかし、救急車や警察が動員されも路地が多いスペインの街並みである。がれきの下となった人やケガをした人の救助は困難を極めたはずだ。結果的には、今回の地震による被災者は約1万人とみられ、スペイン政府は軍兵士200人を被災地に派遣する大災害となったのである。
 汀怜奈は災害の大きさを知ると、慌ててスマホから母親に電話をかけ、安否を報告した。日本時間では午前2時頃だ。電話でたたき起こされた母親は、汀怜奈の話しを聞いて飛び起きた。
「でも汀怜奈さん、無事でなによりですけど…なんでそんなところにいるの?」
 母親の質問にも答えず電話を切ると、次はフロントに電話だ。帰国予定の交通事情を確認するためだ。何度鳴らしても電話に出ない。きっと各部屋からの電話が殺到しているのだろう。業をにやした汀怜奈は、外着に着替えてフロントへ向かった。案の定、フロントでは、ホテルマンが電話の対応で大忙し、汀怜奈が直接尋ねても返事が返ってくるのに時間がかかる。
 仕方なくフロントロビーのソファーに腰掛けて、ホテルマンの回答を待つことにした。ソファーに座っていると、不思議な感覚を感じた。こんな非常事態であるにもかかわらず、暖かな優しい視線を感じる。それが、さっきからずっと汀怜奈に注がれている。彼女は思わずその感覚がやってくる方向へ目を移した。汀怜奈はホテルの玄関に不精ヒゲこそ伸びているが、精悍な顔つきをした青年を見た。
「佑樹さん…。」
 汀怜奈は思わず立ち上がった。そんな彼女に気づいて、青年は外へと出て行った。本能的に汀怜奈は青年を追った。青年を追ってホテルの玄関から、外へ出ようとした瞬間。スペインでは聞きなれない日本語があたりに響き、彼女の動きを止めた。
「外へ出るな。」
 見ると、一回り逞しくなった佑樹が、自転車にまたがって汀怜奈を見ていた。その凛々しく美しい体躯に、汀怜奈は思わず息を飲んだ。
「いま外へ出るのは危険です。無事ならそれでいいんです。」
 佑樹はそう言うと、自電車のペダルを蹴って、丘の上の工房に戻っていった。
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