凪の海
『明日に帰ってくるって、おっしゃっていたのに…いつ帰って来られたのかしら…でも、子犬のような少年だった佑樹さんが…あんなに男っぽくなるなんて…無精ひげのせいかしら…でも今度あったら言ってさしあげよう、不精ヒゲ剃りなさいって…だってあれでは…グラナダ中の娘さんたちが言い寄ってくる…佑樹さんは人を信じやすいから…きっと悪い女性に振り回されてしまうに決まってるわ。』
 汀怜奈は、チュロスをちぎって口に入れながら、いつまでも佑樹のことを考えていた。
「失礼ですが…」
 汀怜奈の妄想は、警察の制服を着た男に遮断された。男は英語で話しかけてきたのだ。
「はい?」
「あなたは、日本の方ですよね。」
「ええ。」
「スペイン語は話せますか?」
「多少なら…」
「誠に申し訳ないのですが、コミュニケーションボランティアとして、市の病院へ来ていただけないでしょうか。」
「コミュニケーションボランティア?」
「日本の旅行者の方が大勢ケガをされて病院にいらしているのですが、通訳の方が足りなくて…」
 もちろん汀怜奈が断るわけがなかった。

 汀怜奈のホテルから、パトカーに何人か乗り合わせて、向かった病院は、グラナダ駅に近い『ホスピタル ルイス デ アルダ』であった。汀怜奈は早速、5階にある外国人対応の診療室にエレベーターで誘導され、怪我の処置を受ける日本人旅行者と現地のドクターの通訳を受け持った。日本人には多少顔が売れている汀怜奈ではあったが、まさかこの事態でこの場所に、あの天才ギタリスタ村瀬汀怜奈が居合わせるとは誰も思っていなかったし、とにかく自分の怪我の方が重要なので、汀怜奈はあくまでもボランティア通訳として扱われ、そして彼女もその任務に励んだ。無我夢中で通訳として体を動かしているうちに、気づくと夜になっていた。来た時と同様、パトカーでホテルに戻り、ベットに倒れこむと、疲れのあまり着替えもせずにそのまま眠ってしまった。

 翌朝、汀怜奈が起きだしてフロントに確認したが、やはり交通網はストップしたままだ。今日もここで足止めとなった。一通り各所へ連絡すると、汀怜奈は手持ち無沙汰にベットに転がる。そして考えた。昨日病院へ誘導してくれた警官は、もう来なくても大丈夫たとは言っていた。でもホテルにじっとしていても仕方がない。彼女はフロントへ電話しタクシーを呼んでもらい、自力で病院へ行った。
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