凪の海
 病院のスタッフとは昨日の働きで、すでに顔馴染みになっていたので、挨拶をすませると早速通訳の仕事についた。昨日と比べて、患者数もだいぶ落ち着いてきたようで、大方の日本人患者の治療処置も済んでおり、汀怜奈の通訳の仕事も午前中には終わった。
 さてホテルに帰るかと、病院のエレベーターを待ったがなかなか来ない。汀怜奈は、仕方がないので、階段で降りることにした。しかし、そこで汀怜奈は信じられない光景を目にしたのである。
 ちょうど3階のフロアに降りてきた時だ。そこは、各部屋が開け放たれ、ベットとはいわず病室の床、通路の床、その一面に薄い毛布が敷かれ、大地震でケガをした現地の住民たちが、所狭しと横たわっているではないか。付き添いの家族もふくめ、そこはごった返していた。汀怜奈は、今回の地震の被害の大きさをあらためて認識して、呆然と立ち尽くす。
「セニョリータ…」
 汀怜奈はスペイン語で呼ばれて我に返る。見ると、老婆が腕を汀怜奈に差し上げていた。その老婆の腕に巻かれた包帯は崩れており、地震で起きた火災で受けたやけどの肌が露出しかかっていた。大勢の患者さんがいて、医療スタッフの手が足りない。老婆が、汀怜奈に求めていることはすぐわかった。
 汀怜奈は、包帯を巻きなおそうと老婆の腕をとったが、包帯はすでに汚れきっており替えたほうが良さそうだ。枕元に真新しい包帯があったので、新しいものに巻き替えることにした。しかし、汀怜奈が包帯を扱う手がなぜか震えていた。こんなにも多くの名も無き市民が、地震の被災者となっていることに、彼女はショックを受けていたのだ。うめき声、出血した血の匂い、付き添いする家族の嘆き。それが、汀怜奈の胸にのしかかってきた。
 手が震えて包帯がうまく巻けない。汀怜奈の目に、涙が滲んできた。世界的な天才ギタリスタと呼ばれ、美しい音楽を奏でるこの手。それが被災して苦しむ人々、いやたったひとりのこの老婆の前で、何の役にも立たないではないか。それが、悔しくそして情けないのだ。
「先輩、なんか包帯とモメゴトですか?」
 久しぶりの日本語で名前を呼ばれた汀怜奈が振り返るとそこに、笑顔の佑樹が立っていた。
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