凪の海
 汀怜奈は気づかなかったが、嘆く女性を胸に抱き、優しくいたわる姿がスマホに撮られていた。確かに3階にいる多くの被災者と家族の中には、汀怜奈を世界的な天才ギタリスタ『村瀬汀怜奈』だと気づくものも居たに違いない。その献身的な姿は被災者のツイッターに書き込まれ、その画像は瞬く間に世界中に拡散していった。

 そろそろ病院からホテルへもどろう。そう考えた汀怜奈は、病院に佑樹の姿を探した。しばらく探し回ってその姿をようやく見つけると、佑樹も仕事が終わったのだろう、デイパックをしょって病院から出るところだった。
「佑樹さん」
 ここで逃したくない汀怜奈は、ひと目もはばからず大きな声で呼び止めた。佑樹はその声に足を止めたものの、振り返って汀怜奈を見ようとはしない。汀怜奈が佑樹に追いついた。
「佑樹さん。お帰りなの?それなら、途中まで一緒に…。」
「この時間に外を出歩くのは危険ですよ。村瀬汀怜奈さん。」
 どうしたことか。泣きじゃくる汀怜奈をいい子いい子してくれた佑樹はそこにはいなかった。代わりに告別式で別れた時の佑樹がそこにいる。佑樹は、汀怜奈を一瞥もせず、通りでタクシーを呼び止めると、汀怜奈の手首を持って黙って車内に放り込む。
「ちょっと、佑樹さん…。」
 佑樹は運転手に行き先を告げると、荒々しくドアを閉めて車を発車させた。汀怜奈は、その変わりように驚きながらも、振り返って後部シートの後方窓ガラスから佑樹の姿をただ見つめ続けるだけだった。

 佑樹は汀怜奈を乗せて走り去るタクシーを見ることさえ辛かった。汀怜奈の澄んだ瞳など正視できるはずもない。自分がボランティアで駆り出された病院に汀怜奈がいたことには、心底驚いたが、最も驚いたのはそこにいたのは、村瀬汀怜奈ではなく、地元商店街の八百屋で、もやしの取り扱いに自信なさそうにしていた『先輩』だったのだ。
 彼の口から、思わず先輩と声をかけてしまった。先輩はあの時と同様、素足のまま佑樹のところに駆けてきた。自分の胸で泣き始めたのには戸惑いもしたが、先輩らしいといえばそうかもしれない。
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