凪の海
 その後は昔と同様に素直に先輩と接することができた。悲嘆する女性の話を優しく聞いてあげている姿も、暖かく見守ることができた。しかし、居合わせた医療スタッフが、『あの人は、天才ギタリスタのセニョリータ・ムラセだ。』と同僚にとささやきあい、スマホに汀怜奈の姿を撮影しはじめたのを目撃して頬を打たれた気分になる。
『そうだ。何が先輩だ。あそこにいるのは村瀬汀怜奈じゃないか。』
 それからというもの、佑樹は汀怜奈と会って溢れ出てきていた得体の知れない気持ちを、抑え込む努力を始めた。やっとのことで心の奥に押し込めたと思ったが、帰り際出口で自分を呼び止める汀怜奈の声を聞いて鍵がはずれかかる。それだもの、汀怜奈の瞳でも見ようものなら、びっくり箱のピエロよろしく飛び出してしまう。

 翌朝、汀怜奈はまた病院行きのタクシーに載っていた。昨日の朝と違うのは、腹を立てていること、そしてフロントに今日の交通事情を問い合わせもしなかったことである。
『昨日のあの失礼な態度はいったい何ですの。私なにか悪いことでもしましたか?ちゃんと会って謝ってもらわなければ気がすみませんわ。』
 そう言って口をへの字にして腕を組む汀怜奈。彼女独特の言い回しではあるが、平たく言えば佑樹に会いたいのである。
 病院に着いて、佑樹を探したが、彼の姿はなかった。まだ早くて、病院へは着いてないのだろうと諦めて、汀怜奈はいま自分ができることを始めた。患者さんやその家族のあいだを巡りながら、優しく声をかけ、話しを聞いて回ったのだ。汀怜奈と触れ合った患者さんや家族は、最初は警戒するものの、いつしか自らの全霊込めて汀怜奈に話しはじめる。怒鳴る人もいれば、泣きじゃくって言葉にならない人もいる。それぞれの人のそれぞれの人生があるからこそ、震災から生まれた悲劇は形も違えば深さも違う。人々が共有できる悲劇などないのだ。聞いて回っているうちに、佑樹を探すことを忘れていった。
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