凪の海
 フロアを回っていると、汀怜奈は昨日話しを聞いた女性と目があった。彼女は昨日と違って泣いてはいなかった。涙が枯れてしまったのだろうか。彼女はじっと汀怜奈を見つめていたが、かすかにその瞳に生きる決意が宿っていた。ああ、佑樹が言ったように、胸に溢れるものを声にして吐き出し、ようやく明日を考える隙間が出来たのだろうか。汀怜奈がやっていることが決して無駄ではないことが実感できた。
「セニョリータ・ムラセですよね…。」
 汀怜奈は、カイゼルヒゲをはやした白衣の老人に声をかけられた。
「はい、そうですが。」
「私はここで病院長を務めていますモナルデスといいます。」
「ドクターモナルデス なんの御用でしょうか。」
「震災の被害者に献身的な介護をしていただいて、病院長として心からお礼を申し上げます。」
「そんな…あたりまえのことですわ。」
「献身的な奉仕をいただいているのに、重ねてのお願いは誠に申し訳ないのですが…。」
 汀怜奈はなんとなく病院長の依頼が察せられた。
「実はインターネットで、セニョリータが世界的に著名なギタリスタであることを知りました。ご存知のように、スペイン人はギターとその楽曲を祖国と同様に愛しております。今、震災で打ちのめされた人々がこの病院に集まっております。そんな人たちを励まし癒すために、少しの時間でも結構ですから、この病院のフロアでギターの独演会をしていただくわけにはいかないでしょうか。」
 汀怜奈は少し考え込んだ。人道的には断るべきではない。しかし、汀怜奈には躊躇する理由があった。だから、必死に断れる言い訳を探した。
「音楽家としてお役に立てるのであれば、ぜひともお力になりたいのですが…。実は、こんな時にこんな話は甚だ不適当かもしれませんが、エージェントとの契約事項がありまして、エージェントの許可無く私の一存で勝手に演奏会を開けないのです。」
 モナルデス病院長の落胆は尋常ではなかった。
「…そうですか…契約なら仕方ないですね。」
「どうしたんです、先輩。肩が震えてますよ。」
 日本語で背後から声がした。振り返ると佑樹が立っていた。
「弾く自信がないんですか。」
「佑樹さん。人の話しを盗み聞きして、勝手なことをおっしゃるのはやめてくださる。」
「世界の村瀬が、弾く自信がないんですか。」
 その生意気なものの言い様と態度にプライドの高い汀怜奈は切れた。
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