凪の海
「私はプロの音楽家です。いつでも、どこでも、乞われれば演奏はできます。」
「なら、なぜ断るんです。」
「だから契約が…。」
「嘘でしょ。世界の村瀬汀怜奈がエージェントとの契約を怖がるわけがない。」
「プロの世界はいろいろあるのです。」
「いや、先輩が嘘をつくときはすぐわかる。」
「何言ってらっしゃるの。私が告白するまで女だってわからなかったくせに。」
 汀怜奈の剣幕に、佑樹も少しムキになってきた。
「いやっ、そういうこともあったけど…今回の嘘はわかりますよ。」
「なぜわかるのですか。」
「先輩は、不安だったり、悲しかったり、迷ったり、そして悲しい嘘をつく時には、かならずその細い肩を震わせるのを、知ってました。」
 佑樹はそう言い放つと勝ち誇ったように汀怜奈の瞳を覗き込んだ。そして、瞬く間に後悔の念に襲われる。汀怜奈の瞳には涙がいっぱい溢れていたのだ。
「そうです…佑樹さんの言うとおりです…自信がないんです。ここにいる患者や家族の皆さんのお話を聞いて…その悲しみや悲嘆の深さを知って…知れば知るほど…ただ音色が綺麗というだけで、なんの『ヴォイス』も聞こえてこない私のギターが…そんなみなさんへの励ましや癒しになるとは思えないの…。」
 ついに汀怜奈は泣き出してしまった。
『音楽家としても、そして人間としても、なんて純粋な人なんだろうか。この人は…』
 佑樹は、泣きじゃくる汀怜奈の肩を優しく抱いた。しばらくして汀怜奈も落ち着いてくると佑樹は優しく言った。
「まだ『ヴォイス』の呪文が解けないで苦しんでいたんですか?もうとっくに解けているかと思ってましたよ。」
「そんな簡単な、話しじゃないですわ。」
 佑樹は汀怜奈にハンカチを差し出した。
「大丈夫ですよ。先輩。だったら自分が先輩に、呪いを解く魔法をかけてあげます。」
「えっ?」
 佑樹はモナルデス病院長に向かって自信を持ったどや顔で言った。もちろん今度はスペイン語でだ。
「病院長。どうぞコンサートの準備を進めてください。セニョリータ・ムラセは演奏してくれますよ。」
 これまで不可解な日本語での慌ただしいやり取りと、ふたりの激しい感情の変化を、ただ呆然と見守っていた病院長も、とにかくコンサートが出来るとわかって、安心したように笑顔で頷いた。
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