凪の海
 中京区の堺町通三条にあるイノダコーヒ。コーヒーと最後の長音符を付けないが正式だとか。ここは、1947年8月にオープンした話題の店だ。まだ、コーヒーが贅沢品の時代であったが、新しモノ好きの同志社のボンボンたちは、値段も気にせず良くこの店に通っていた。
 上品ぶった喫茶店が立ち並ぶその時代には珍しく、何の気兼ねなく会話に時間を費やせるタイプの喫茶店だったから、使い勝手がよかったのだ。実際、客が会話に夢中になってコーヒーが冷め、砂糖とミルクがうまく混ざらなかった事がきっかけとなり、初めから砂糖とミルクを入れた状態でのコーヒーの提供が始められ、そのスタイルが現在に至っている。普段コーヒーなど飲まない泰滋だが、新聞部の仲間である進一郎に呼び出されて仕方なくやってきた。
「おう、シゲ。早いな。」
「早くないやろ。イチが遅れたんやないか。」
「そう、怒るなて。今日はおごるさかい。」
「こんなしょうもないものおごられても、しかたないわ。…で、話しってなんや。」
 進一郎は、給仕にコーヒーを頼むと、上着の内ポケットから手紙を取り出して泰滋の前に置いた。
「これなんやけどな…。」
 泰滋は、手紙を取って読み始めたが、それがなんであるかがわかると、すぐ手紙を閉じた。
「人に宛てた手紙を、他人が読んだら書いた人に失礼やろ。」
 手紙を進一郎に戻しながら、泰滋は言葉を続ける。
「ごれ、この前の文通運動やないか。」
「そうや。じゃいけんで勝ったから、ひとつ返事を受け持ったんやが…ちょっと困ったことになってな。」
 泰滋は話しの方向が見えて来ると、イノウエコーヒに来てしまったことを段々後悔し始めてきた。
「新聞部では誰も知らん話やが…わてには婚約者がいるのや。親が決めた相手やけど、家の事情でな。よう断れんし、大学卒業したら結婚や。」
 泰滋は不用意に発言するのも危険だと思い、黙って進一郎の話しを聞き続けた。
「それがな、なんで知ったんかわからんが、女子高生と文通しているって、婚約者が知ってな。エライ怒りようなんや。いくら『文通運動』だというても、理屈のわからんおなごの頭では理解でけへん。このままだとエライことになりよる。」
「文通やめればええやん。」
「そや、その通りや。けどな、そう簡単に辞めると言うわけには…。」
「俺にどないせい言うんや?まさか、代わって文通やれと言うんやないやろな。」
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