凪の海
「そこまでは頼まへん。ただ、うちに代わって1通だけ手紙を書いて欲しい。」
「なんやて?」
「『進一郎が事故でけがをして、当分ペンが持てん。手紙を頂いて返事が書けぬ不義理を重ねるのも本意ではないので、あなたとの『文通運動』をここで終わりにしたい。と、進一郎がすまなそうにそう申しております。代筆泰滋。追伸、進一郎の容体は命に別条はないのでご心配にあらず。』てなかんじやな。」
「正直に書けばええのに。」
「相手は純真な女子高生やで。婚約者が怒ったなんていう理由で辞めるというたら、傷つくやろ。」
「ならば、なんか理由考えて、自分で書けばいいやないか。」
「どんな理由でも、五体満足で手紙が書けるのに辞める言うたら、それも傷つくやろ。」 
 泰滋は呆れたように進一郎を見つめた。
「それこそまさに、『ブルジュア的偽善』ていうやつや。」
「お前は、プロレタリアートか。」

 泰滋はその夜、自室のデスクで頭を抱えていた。目の前には便箋、傍らには進一郎の文通相手の手紙がある。なんだかんだ言っても、結局引き受けたのだ。進一郎がカメラのフィルムを3本付けると言いだしたので、その魅力に負けて断り切れなかった。
『結局俺はブルジュアの手先になり果てた…。』
 泰滋はデスクに座りながら自らの頭を平手で叩いた。
 嫌な仕事は早くすまそうと、その日の夜にデスクに座り、父から大学の入学祝いに貰った木製の万年筆を握ったのは良いが、書く参考にと進一郎から渡された手紙を、読んでしまったことが失敗だった。
 手紙はとても短い文章だった。内容もどうってことは無い。ただ、本当に自分が感じたことを一文字一文字丁寧に書いてある。この女子高生が書いてあることに嘘が無いことが、泰滋を悩ませた。いくら傷つけたくないとは言え、こんな素直な人に、嘘の手紙を書いていいものなのだろうか。余計に傷つける結果にならないだろうか。手紙さえ読まなければ、とっくに書きあがっていたはずの便箋を前にして、彼は依然と頭を抱え続けた。
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