凪の海
『大学生にもなって恥ずかしい話しですが、自分は狭い盆地に生まれ育って、言いたいことがストレートに表現できない典型的な京都人です。しかし、広い世界へ飛び出すには、そんなことでは生きていけない。今自分には思っていることを素直に口にできるような訓練がぜひとも必要だと痛切に感じています。手始めとして、まず心に浮かんだことを正直に書き標そうと考えたのですが、ただ日記に書いても、自己満足に終わりそうで自分に対して覚悟になりません。ぜひ手紙という形でやってみたいのです。』

 えっ、前の人に替わって文通しようって言うの?これじゃ、同じ事じゃない。

『あらためてはっきりと申し上げます。これは『文通運動』ではありません。あくまでも僕の訓練なのです。だからお返事は期待しません。頂かなくても結構です。ぼくの書く文章の向こうに座っていていただければと願うのみです。もちろん、ミチエさんには拒否権があります。それがご負担なら、訳も愛想も要りません。ただ同封されている『ストップ』という札をご返送くださるだけで結構です。

 ミチエが封筒をはたくと、果たして『ストップ』と書かれた紙片が中から舞落ちてきた。

『それでは、今日はこれで筆を置きます。泰滋より。』

 味もそっけもない手紙だ。私の都合も考えず一方的に書いて送ってきた。そう思いながらもなぜかミチエの顔には笑みが浮かんでいた。次の手紙の封を切った。

『前略 ミチエ様。1週間待ってもストップが来なかったので、訓練を始めます。』

 しまった、知らない間に始まっちゃった。

『でも、拒否権はいつ発動しても有効ですから、負担だったら前に送った札を、いつでもいいから躊躇なく返送してください。』

 なるほど…。

『今講堂の窓から外を眺めると、京都の街は『しぐれ』ています。この『しぐれる』というのは、秋冬の訪れを感じさせ、京都らしい風情があると言われますが、実は僕は大嫌いです。なぜなら、雨粒も当たっていないのに、大切なカメラがしこたま濡れてしまうから…。』
< 29 / 185 >

この作品をシェア

pagetop