凪の海
 この建物は、第二次世界大戦終結直後の1946年年12月に建設された、大規模木造建築の映画専用劇場だった。第二次世界大戦中は軍部の統制で娯楽への引き締めがおこなわれるとともに、米軍による無差別爆撃への対策として大規模な木造建築の新造も禁止されていた。しかし戦後、GHQは日本の民主化を促進する目的で、アメリカ映画を封切上映する大規模な映画館の設置を要求し、スバル座は都知事の特別認可という形で建設された。
 開館したスバル座は、アメリカの豊かな文化を日本に伝える映画館として、庶民に夢と希望を与える場であった。しかし、終戦直後の物資欠乏の中、突貫工事で建てられたその建物自体は、完全木造建築、内装も合板張り。防災設備は粉末式消火器が常備されているだけで、防火区画・シャッター、スプリンクラー設備はおろか屋内消火栓すら設けられていないお粗末なものであった。その代償はすぐやってくる。1953年9月6日、19時1分。劇場映画『宇宙戦争』の上映中に、爆発音とともに1階の掃除用具入れとして使用されている物置から火の手が上がり、初代スバル座は焼失する。ふたりが入ったのは、1952年の3月だから、その1年半後にこのスバル座は無くなることになる。本人たちは気づきようもないが貴重な映画鑑賞となった。
 映画はすでに始まっていた。しかし、ふたりは気にもせず暗いホールへと目をこらしながら進む。今のロードショウ封切り館のように、映画が終わるたびに指定席入替え制ではない。いつでも入れるし、空いてれば何処にでも座れる。
 作品は、娯楽超大作『サムソンとデリラ』。セシル・B・デミル監督製作による1949年のアメリカ映画。『士師記』のサムソンとデリラの物語を原作としている。『士師』とは他民族の侵略を受けたイスラエルの民を救済した英雄たちのことであり、当然サムソンはその志師のひとりである。
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