凪の海
「やあ、お久しぶり。佑樹なら学校だけど…。」
 彼が学校で家に不在なのは承知で来た。ゆっくり佑樹の部屋で橋本ギターを触りたいのだ。
「部屋で待たせてもらえますでしょうか。」
「ああ、別に構わないけど…。」
 父親はそう言いながらも、汀怜奈が手に持つ東急百貨店の手提げ袋が気になるようだ。
「あの…先日は2晩も寝泊まりさせていただいて、ご迷惑をおかけしまして…これはお詫びと言うか、お礼と言うか…。どうか、ご笑納くださいませ。」
「えっ、そんな…気を遣わなくていいのに…。」
 父親は、言葉とは裏腹に相好を崩して嬉しそうに手提げ袋を受け取った。
「どうぞ、上がってください。」
 汀怜奈は玄関を上がり、佑樹の部屋を目指す。しかし、やおら立ち止まると振り返って父親に言った。
「折角でございますが、缶コーヒーは要りませんので…。」
 今日は父親に邪魔されたくない汀怜奈は、先手を打った。
「えっ、そうぉ…。缶コーヒー嫌いなら最初から言ってくれればいいのに…。」
 父親はぶつぶつ言いながらエロ小説の続きを書くために自分の部屋に戻っていった。

 佑樹の部屋に入った汀怜奈は、真っ先に橋本ギターに駆け寄った。今度は間違いなく手に取ることができた。高級材を使用しているわけでもなく、ことさら凝った装飾をしているわけでもない。何処にでもあるようなガットギターだ。さて抱えようとしたが、何度見ても、トップ板に後から張ったピックガードが我慢ならない。ギタリスタとして、そんなギターに対する冒涜が許せないのだ。ことギターやギター演奏に関することについては、エキセントリックなこだわりを見せる汀怜奈。それが天才ギタリスタたる所以なのだが、今回はこのままでこのギターを抱えるしかない。
 佑樹のベッドの上に腰掛け、格闘技の雑誌を積み上げて左足の踏み台にし、ギターを立て気味に右ひざの上に乗せる。慎重にチューニングをした。安価な弦で劣化が激しく、キーが安定しない。納得は出来ないまでも、これ以上チュ—ニングしてもよくならないレベルまで来ると、汀怜奈はギターをつま弾き始めた。ロドリーゴ氏の作品の中から、『小麦畑で』約5分の小作品である。
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