凪の海
 弾きながら汀怜奈はあらゆる面をチェックした。抱き心地は?小ぶりで悪くない。音は?良い音でよく鳴っていると思う。共鳴を邪魔しているピックガードを除き、弦を新しいものに張り替えれば、もっと良い音が出るに違いない。しかしそれ以上のことはことさら発見できなかった。
 弾き終わって、橋本ギターを改めて眺めた。どこに『御魂声』などあるのだろうか。もしかしたら、演奏する時の気合いが足りなかったのか。汀怜奈は、静かに目を閉じて息を整える。自分がコンサートホールに居るイメージを作りあげ、そしてゆっくりと目を開けて演奏を開始した。汀怜奈はたちまちゾーンに入る。コンサートでの演奏の常ではあるが、汀怜奈はいつも指が勝手に動き出す感覚で演奏している。その感覚はすぐにやってきたが、やがて彼女は不思議な感覚に見舞われる。
 ギターの音が澄みきった汀怜奈の頭の中にしみ込んでくるのだが、その音はやがてある情景を、汀怜奈の頭の中に映し出し始めた。古ぼけた木造の倉庫。その前にある猫の額ほどのお庭。小さな女の子を膝に乗せた女性と作りかけのギターを持った男性が切り株のベンチに座っている。男性はどうやらうんちくを傾けながら、組立中のギターを説明しているようだ。得意そうに語る男性の話しに女性の膝の上の女の子は、とっくに飽きてしまい、庭に下りて雑草の花を摘んで遊び始めた。しかし、女性は相変わらずそのすずしい目元にとてつもない優しい笑みを浮かべて、辛抱強く男性の話しに耳を傾けていた。
 ああ、あの女性は目の前の男性を本当に愛しているのね…。汀怜奈はそう感じた。男性は時より、嬉しそうに女性のお腹をさすった。自分の話しをそのお腹にも聞かせているようだ。きっと彼とのふたり目の赤ちゃんが、お腹にいるのに違いない。やがてふたりは、誰かに呼ばれたのか、同じ方向に目を向ける。見ると、外から木土門をくぐって頑固そうな顔の老人が入ってきた。木土門…あれっ、この門はどこかで見たことがある。
 曲の終わりと同時に、汀怜奈の頭の中に映っていた映像も切れた。汀怜奈はしばらく呆然自失としながらギターを見つめていた。確かに他とは違う独特な感じはする…しかし、やはり求めている『御魂声』なんて聞こえてこなかった。師匠の話しは、やはり単なる噂ばなしに過ぎなかったのだろうか。
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