凪の海
 泰滋は笑いながら、ほうとうの熱い味噌仕立ての汁をすすった。そんな彼をしばらく眺めていた伯母であったが、厚手のどてらを羽織る背を一層丸めながらつぶやく。
「ああ、本当に冷えてきたのぅ。この調子だと明日は雪じゃ。」
「そうですか。」
「この時期が一番冷え込むのだから仕方がないが、山の暮らしをしてると、人はただ耐えてじっと春を待つことだけを覚えてしまう。…あら、泰滋ちゃん、まだほうとうはあるで、もう一杯どうじゃ?」
「ああ、ならお椀に半分だけください。」
 伯母は、泰滋から空のお椀を受け取ると、ほうとうを鍋からすくった。
「春は必ずやってくるから、待つのはええんじゃが…。ほら、こんくらいでええか?」
 泰滋は礼をいいながら伯母からお椀を受け取った。
「他のことは待ってて、本当にええんかったかと、思う時がある。」
 伯母の言葉を聞いて泰滋の手が一瞬止まった。しばらく、椀の中の野菜を無言で眺めていた彼だったが、やおら箸を動かし始めると、2杯目のほうとうを勢いよく口にかきこみ、最後の一滴までお椀の汁を飲み込んだ。
「ああ、美味しかった。ありがとう伯母ちゃん。ところで…。」
 泰滋は空のお椀を伯母に差し出すと、満足そうな笑顔で言った。
「電報局は、確か駅のそばにあったよね。」
 泰滋は何かを決意したようだった。

 ミチエが家を出た時ちらついていた雪は、やがて本降りとなり、街の屋根や道を白く覆う。運が悪いことに、その日は関東史上にも記録される大雪の日となった。泰滋の万年筆を握りしめて、電車に乗っていたミチエだが、車窓が次第に雪に塞がれていくと、家を出た時の勇気もどこへやら、だんだん心細くなっていく。通常なら、総武線から山手線に乗り継ぎ、目黒で東急目蒲線に乗り換え多摩川へと、2時間程度の道のりなのだが、雪のために大幅に遅れて2時間経ってやっと、秋葉原である。
 山手線に乗り換えたはいいが、ここも停止と発車を繰り返して、1時間以上もかけて目黒にようやく到着した。ミチエはしばらく駅のベンチで休むことにした。今まで、締め切った車内で蒸し暑い人熱れに揉まれて、ミチエも気分が悪くなっていたのだ。バスケットで鍛えたミチエの心身でも、今日の雪は体に堪える。無謀にも、こんな日に家を出てきてしまった自分に後悔の念が押しよせる。
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