【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】

 神輿の後方には金襴と袴、頭にはきらびやかな天冠(てんがん)をのせた地域の子供たちが続く。彼らは皆手に紫や朱色、緑などの紐を垂らした鈴を持っていて、進むたびにしゃんしゃんと鈴がなる。
 彼らは小さい身ながらこの祭礼で大きな役割を果たす。化粧をし、きらびやかな稚児の衣装を身にまとって朱雀様に舞いを奉納するのだ。

 私もかつてこの祭礼に稚児として参加したので少し記憶が残っている。
 この舞の練習は祭礼の何ヶ月も前から始められ、まだ小学校一年生になるかならぬかの子どもたちにそれを仕込む大人も大変ならば、ついてゆく子どもたちの苦労も相当なものだ。
 そのあまりの苦労に祭りへの参加を拒否して、七五三は写真館で記念写真を撮って終わりという家も最近は増えているらしい。

 昔に比べて随分と短くなった子どもの列を振り返りながら、私は古いこの地域の七五三行事が廃れつつあるのを感じて少し寂しくなった。
 私の時はこの行事を通して新一年生になる子供たちがそれぞれの幼稚園や保育園からやってきて仲良くなったものなのだけれど、もうそんな面倒くさいことは時代遅れなのだろうか。
 いや、古い古くないに関わらず、近年の核家族化と共働き夫婦の増加でこういった祭礼の準備に参加することが難しくなっているのかもしれない。何ヶ月も幼稚園が終わってから稚児舞の練習など、子どもだけならばまだしも、働いている親も同伴ではなかなかできることではない。


 ぼんやりとそんな時の移り変わりを感じながら、私は輿に揺られ、この祭礼のために拵えられた朱雀様の御殿に揺られてゆく。
 数十分輿に揺られた後、私は神輿を降りることなく北条家の本殿によく似たつくりの建物の一番奥に作った席に座り、舞や演武の奉納が終わるのを待つ。この祭礼では私の立場はあくまでゲスト、つまり座っているだけなので、衣装の重さに慣れれば随分と楽だ。

 完全にお客様気分でこの祭礼に臨んだ私は、自分の姿が御簾の奥深くに隠され、見物人や子どもたちから見えないのをいいことに完全にリラックスしている。もし飲食が許されるのならばきっとスナックでも食べながらお茶を飲みつつ可愛い子どもたちの舞の奉納を楽しんでいただろう。だが、残念なことに巫女さまは朱雀様の寄坐という立場なので飲食は許されなかった。

 この祭礼のメインイベントである舞の奉納が終わり、続いて演武の奉納が始まった。

 これは元々この祭礼が始まった平安時代末期にはなかったプログラムなのだけれど、武士の台頭によって荘園制度と貴族の立場が揺らぎ始めた鎌倉時代中期頃に始まったらしい。
 この地域の領主であった北条家もこの頃には武装し、他の大名たちからこの地域を守るべく武力に力を入れるようになった。その流れから領主自ら朱雀様に演武を奉納するようになったという。
 だからここでは北条家当主、つまり景久さんが演武を披露する予定なのだ。私も榊さんからそれを聞いて少し今日の演舞を楽しみにしていたのだ。武道なんて縁も興味もなさそうな景久さんが演武。一体どんなものなのだろうか。

 どん、と大きく太鼓の音が響き、本殿の外側の御簾が巻き上げられた。先ほどまで稚児が舞い踊っていた広い場所の向こうに馬が引き出される。
 弓を手に馬上にあるのは景久さん、そしてもう一頭馬が引かれてきて、そこには景久さんの相手を務める人が乗っているはずだった。
 だがしかし。
 私は出てきた若い男を見るなり目を剥いた。

「あ、あきひ、さ……?」


 つやつやとした栗毛の馬に乗った若い男はどう見ても彰久だった。彼は普段のドヤンキー丸出しの着崩した制服姿ではなく、竜胆(りんどう)と呼ばれる濃い赤紫と鮮やかな緑の衣を重ねて濃い紫の袴をつけている。
 その姿には景久さんほどの優美な気品はないものの、彼独特の華やかで凛とした美しさがある。

 彰久の同級生だろうか、馬に乗って現れた彼の姿に若い女の子たちが「あきひさー!キャー!」と声を上げて手を振っている。

「あ、彰久じゃないの……」

 見た目が完全にインテリ優男の景久さんが演武に参加するのもある意味ちゃんとできるのだろうかと心配だが、普段の態度が完全にドヤンキーである彰久がこの場に出てくるのも景久さんのそれとはまた違った意味で怖ろしい。

< 104 / 164 >

この作品をシェア

pagetop