【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】
朱雀はその顔に底意地の悪い笑みを貼り付けたまま身を屈め、ゆっくりと私に顔を寄せた。
朱雀が現れたときに感じた冷ややかな菊の香りがぐんと濃くなり、だんだん頭の芯が痺れ、上手くものを考えることが出来なくなってくる。
「あた、り」
朱雀様は猫がやるように、大きく目を見開いた。女のように紅をひいた赤い唇に意地の悪い笑みを貼り付けたまま、彼は私に手を伸ばした。
ぞっと全身の毛が逆立つような感覚があった。
くるな。
あまりの恐ろしさに震えが止まらない。けれどこの場の誰かに助け求めようにも声が出ない、指一本動かせない。
祭礼の場には千人を越える人が来ているというのに、私はその中の誰にも助けを求めることが出来なかった。
「あたーぁ、りぃー」
男のそれにしてはやや細く、女の声にしては低いような声が、朱雀の唇から漏れる。
あたり。
『当たり』……?
朱雀様はもう一度そう繰り返し、私の首に手をかけた。
首を絞める気だ。
私は逃げることも助けを求めることもできないまま、ただただ目を見開いて朱雀様を見上げていた。恐怖のあまり、朱雀から目をそらすことが出来なかった。
彼の手のひらに力がこもった。息が詰まり、目鼻が外に向かって押し出されるような強い圧迫感。
殺される……。
そう思ったとき、だん、と大きく音がして、反射的にそちらに目をやると、景久さんが彰久を捻じ伏せてその首に太刀を押し当てていた。
あのほっそりとして柔和な景久さんのどこにそんな力があったのかとわが目を疑うような光景だった。
いつの間に怪我をしたのか、景久さんの右眉の上がぱっくりと切れて赤い血が目の中に、頬を伝って顎に滴っている。おそらく今、彼の右目は今、血でほとんど見えていないだろう。けれど、彼はそんなことに頓着せずに彰久を捻じ伏せていた。
景久さんの、勝ち……。
景久さんがその技量を示したところで、どん、と演武終了の太鼓が鳴った。
その音のせいなのか、朱雀の手の生々しい感触がするりとほどけて呼吸が自由になる。酔ってしまいそうなほど濃い菊の香りもさらりと秋風に溶けて消えてしまう。
消えた……。
周囲を確認しなくとも分かる。朱雀が消えた。
途端に今まで見えない糸できつく縛られていたかのようだった私の体が緩み、動けるようになる。
し、死ぬかと思った……。
初めて会ったときの朱雀とはまるで違う朱雀。禍々しく怖ろしい朱雀。
私は自分の体をきつく抱きしめて震えをおさえた。
思わず大きく息をつくと、榊さんが微笑んだ。
「まあまあ、息を止めてごらんになるほど御気を揉まれて……。大丈夫でございますよ。北条家の家訓は文武両道でございます。景久様も彰久様もお小さいうちから竹刀を持っておられるのですから、加減は心得ておられますよ」
榊さんだって彰久が本気で景久さんに討ちかかっていったときは顔色をかえていたくせに、まるで私一人が心配していたかのようなことを言う。
「景久様、お見事でございましたね」
榊さんはそう言って優しく微笑んだ。
私は型どおりこちらに向かって一礼する景久さんに目をやった。
祭礼のための衣装であれだけ動き回ったので、彼の額には玉の汗が浮かび、まだ肩で息をしている。きっと着物もぐっしょりと汗で濡れていることだろう。
続いてこちらに礼をする彰久も汗まみれで、捻じ伏せられたときにどこかを痛めたのか、やや動きがぎこちない。
軽やかな衣擦れの音をさせて優雅にさがって行く彼らの姿を見送りながら、私は彼らに大きな怪我のなかったこと、そして自分の命がまだあることに、長く大きなため息をついた。